根津山小さな追悼会で思ったこと(改版1)

柄にもなく近所の追悼会ででかけた。今までも、興味半分で失礼かと思いながら、もしかしたら目からうろこに出会えるかもしれないしと、似たような集まりに出席したことがある。そのたびに思わぬ目からうろこで、がっかりだけならまだしも、いやな疎外感を味わって帰ってきた。また似たようなことになるんじゃないかと思いながらも、これも経験、もしかしたらもあるじゃないかと尻を叩いてでていった。
ひょんなことから知り合った人に呼ばれたどうでもいい集まりで出会った人の話から、自分の殻を脱げないまでも、端っこに一つ二つの穴ぐらい開けられるかもしれないという思いがあった。

来賓のお決まりの挨拶から始まった。どこにいってもこの類の話をじっと聞いられない自分の気持ちの狭さに嫌気がさす。どうでもいいとはいわないが、定型句の繰り返しに隙間を生めるとりとめのない話。もうちょっと簡潔にまとめる考えはないのか、と聞いているだけでも息苦しくなる。

式がすすんで、空襲を体験された方々の話になった。高齢にもかわらず言葉ははっきりしていた。空襲から疎開先の話になったりで、話があちこちにとぶ。それでも、強く記憶に残ったことが中心になっているからだろう、逃げ惑ったときの状況が、映画かなにかでみたものと重ねあわせになって目に浮ぶ。聞いているうちに涙がでてきた。
ところが、その涙、不徳にも逃げ惑った悲惨な状況を思い浮かべてだけのことでなかった。なんでこういうことになってしまうのかとイヤになる。

追悼会のようなもので聞ける話は、すべてといってもいいすぎではないと思うが、語る方も語る方を招いた人たちも、被害者としての自分たちしか見ていない(ようにみえる)。自分たちはとんでもない加害者の一員だった、意識することもなかったにしても、間違いなく軍事国家大日本帝国の侵略(戦争)になんらかの形で関与してきたという視点はどこにもみえない。人として許されることのない犯罪に間接的にせよ加担してきた一人だったことを忘れているのか、そんなことを考えたこともないとしか思えない話で終わる。
涙の半分以上は、その姿勢に対するものだった。普通の人たちの普通の持ちえる視点でしかないにしても、空襲体験を真に生かし後世に伝えてゆくには欠かせない、人としてもっていなければならない自覚だろう。その場でそんなことに思いがいってしまう自分に対する涙でもあった。

東京の下町で空襲になかを逃げ惑った話は祖母からも母からも聞いていた。なにかのときに祖母が言った一言「赤は怖かったから」を思い出す。まだ中学生だったが、「怖かったのは赤じゃなくて、憲兵や軍や警察であって、赤は戦争をしちゃいけないと命をかけて主張した、まっとうな人たちだった」と、腹立ち紛れに言い返したのを覚えている。
追悼会の出席者は圧倒的に高齢の方々だった。祖母や母の感覚と似たような感覚の人たちが大勢だろうと、勝手に想像している。

豊島区の「ようこそ区長室へ 写真レポート2018年」には次のように記載されている。ちょっと長いがそのまま転載する。
https://www.city.toshima.lg.jp/010/kuse/034432/shashin/2018/1806021026.html

「当時は、豊島区民の7割、約16万人が被災し、700人以上が亡くなりました。多くの国民が年々悲惨な戦争を意識することも少なくなっていますが、世界に目を向けると紛争や戦争は決して無くなっていません。そんな中、小田光野(おだこうや)代表をはじめ、多くの方々のご努力により、城北大空襲の犠牲者の方への哀悼と、平和の大切さを広く伝える場を作っていただいたことに、心より感謝いたします。
豊島区は、23区で初めて「非核都市宣言」を行い、核兵器根絶、世界の恒久平和を訴えてきました。今後とも、区民の皆さんと手を携えて、世界平和の実現と、安全・安心なまちづくりに向け努力してまいります。追悼会では、被災者証言集の第3集も発行されたとの発表もありました。今後も末永くこの追悼会が続いていく事を切に祈念いたします」

「努力してまいります」「祈念いたします」はいいが、軍事予算を増やして重厚長大産業の軍需産業化を進めている現政権と政党の支持者たちが追悼会に出席していないとは思えない。豊島区区長は政権与党の党員じゃないのか。
非核都市はいいが、軍備の輸出で産業振興はいいのか? かの地での紛争や戦争は日本株式会社の、日本経済に、そして人々の生活に寄与するからいいというのは、自分たちが被害(空襲をうける) をこうむるわけじゃないから、いいじゃないかということに他ならない。
日清戦争で清朝の年間予算を賠償金として召し上げて、官営八幡製鉄所をつくった。そこから製糸産業のような軽工業しかなかった日本が重化学工業へと発展していった。台湾や朝鮮半島を植民地にして、日露戦争でも第一次世界大戦でも日本は戦場から遠く離れて戦需で沸きかえった。第二次世界大戦で焦土と化すまで、報道管制もあってのことにしても、日本人のほとんどが戦争は、仕事は増えるし儲かるしで、いいことだと思ってきた。

追悼会と軍需産業化や武器輸出、どう考えても相容れるとは思えない。集まっている人たちは、みんな巷の普通のいい人たち。そのいい人たちの日常の善意が善意で終わらない。加害者の一員であったことをすっぽり忘れて、かの地の紛争をメシの種にしようとしている今の日本からどうやって明るい将来を見ようとするのか。ぼっちが一人で考えてしまう。
2019/6/16