依拠する大衆は?(改版1)

「おい、片岡、篠塚さんはOKしたんか」
大丈夫だとは聞いていたが、いつまでたってもはっきりしない。たてる候補が決まらないと、何をするにもしようがない。候補をたてられなければ、波男が部長になってしまう。波男じゃ困るしで、聞いてしまったが、聞かなければよかったと思った。どうだなんて聞かなくたって、はっきりすれば言ってくる。
みんな篠塚さんで決まりだと思っているのだろう、見た目だけにしても明るい。その明るさに付いていけない。そんなもの、よくてつかの間の五月晴れ、どうにもウソ臭くて受け入れられない。みんなと一緒に明るくなれない自分がおかしいのかと、なんども考えた。いくら考えても、おかしいとは思えない。ただ、みんなと違うというだけで、なんか後ろめたい。

もう期日も迫っている。篠塚さんがだめだったら、今さら誰をというわけにもいかない。だめならだめでいいじゃないか。波男を担いで、今までどおりの一年が始まるだけじゃないかと割り切ってしまえばいいだけで、なにがあるわけでもない。
仲間内の話しから、また篠塚さんをという話しで進んでしまったが、日が経つにつれて、本当にそんなことをしていいのかと不安が膨らんでいった。みんなの合意にのりきれないまま、今さら否定しようのないところまできてしまったが、戦さにならないのを承知で、身内で波男にあたるべきだったんじゃないかと思いがつのった。

波男は青年婦人部の幹事を二度やって、我孫子工場の現場では人気がある。がたいはいいし、男っぷりも悪くない。誰もが認めるいいヤツだが、旗を振ったりビラをくばったりまでで、組合のオヤジ連中とわたりあう才覚の類は同情したくなるほどなにもない。今年限りで引退する金子さんも似たようなもので、思想とまでいかないにしても青年婦人部としてのありようにこれといった考えがない。
考えがなければないなりに、もうちょっと慎重にことを運べばいいのに、六十年代末の全共闘に憧れて過激なことを口にしては社内でデモを繰り返して、労組どころか従業員の多くからも顰蹙をかっていた。「行動が先か理論が先か」などと禅問答のようなことを言ってわかったような顔をしているが、最低限の知識もなければ考えもない現場の跳ねっかえりだった。
波男では、労組の下働きに使われて、再来年の市議会議員選挙にまで駆り出される。会社ぐるみの選挙に走り回って、御用組合の恥をさらけだすことになる。

青年婦人部の部長は、労組主導で我孫子の本社工場と習志野工場の一年ごとの持ち回りが不文律になっていた。それが習志野工場に根をはっている代々木系の活動家を抑えようと、この三年は我孫子から部長がでていた。さすがに四年続けてとなると、習志野からの反発もあるしで、今年は習志野からという暗黙の了解の雰囲気があった。
それでも組合は波男を推していた。市議会議員選挙を思えば、金子部長の使いぱっしりとしてやってきた波男の方が扱いやすい。習志野出身まではしょうがないにしても、組合の唯一の実働部隊に代々木系の息のかかったのにでてきてもらっちゃ困る。
青年婦人部は従業員の一割ぐらいを占めていた。そこは構造不況の工作機械屋。新卒採用が減っていって、平均年齢が毎年一歳近く上がり続けていた。青年婦人部も毎年減り続けて、もう二百人ほどになってしまった。

篠塚さんは偉ぶったところのない穏やかや話し方で、三年続いた執行部への反発もあって我孫子の現場にも受けがいい。副部長候補の河野は我孫子の設計にもかかわらず、どういうわけか習志野の現場にいる篠塚さんとは馬があう。三年前の夏のキャンプで、習志野の代々木系の活動家の一人、塩谷が河野を紹介してから付き合いが始まった。河野は長身の一見優男で、嫌味のないまっすぐな性格から敵という敵がない。どこからみても代々木系の活動家には見えない。篠塚さんに河野の組み合わせなら間違いなく勝てる。問題は篠塚さんがうんと言うかにかかっていた。

塩谷は篠塚さんとは高校の同級生だった。ボソボソした話し方で話にキレはないが長丁場のオルグには適任で、三年がかりで篠塚さんを説得していた。篠塚さんが「うん」といってくれれば、もう勝ったようなものだった。そこまではいい。問題はその先にある。誰もが気がついているのに、誰も口にしようとはしない。
そんなことは、篠塚さんを担ぎ出すという話がでたときにわかっていたことなのに、誰もがマイナス面から目をそらして、いいことだけを見ていたいという、普通の人のあって当たり前の気持ちのまま流れていた。いい空気のままでいたいが、放っておくわけにもいかない。マイナス面との対峙を避けていたら、自分(たち)の存在自体が問題になる。

篠塚さんの了承をもらったとたんに班会議が変わった。もう誰も上部組織から落ちてくる学習なんかほっぽらかして選挙一色になった。最大野党の右派の労組にいびり続けられてきた鬱憤もあって、こんどの選挙はとみんな息があらい。選挙を機会に我孫子で支持者の拡大――将来の基盤をつくらなければという話になっていった。

「おい、藤澤、我孫子の状況はどうなんだ」
なんでオレに訊く。オレは裏方で表に立ってるのは高野じゃないかって思いながら、
「なにが変わってるとも思えないな。しいて言えば、波男ととりまきがブツブツいってるぐらいだろう。ちょっとてこずってるけど、風戸さんに任せておけばいい。労組は篠塚さんを形ながらも応援しなきゃって話になってきてるし。おい、細かなことはオレじゃなくて、高野だろうが」
「おい、高野」
口下手な高野が話を振られて、モゴモゴいってるが、何があるとも思えない。
「片岡、お前、我孫子に何をってんだ」
「いや、今回の選挙は楽勝だ。選挙はいい。問題は我孫子の基盤づくりだ。選挙を期に我孫子での基盤を作りなんだが、高野、状況はどうなんだ」
「どうっていわれても、何もないよ。今まで通りというか、声をかけられそうな人たちには声をかけてるけど、みんな選挙のことまでで、その先のことを話そうとしても誰も……」
「青年婦人部の中核と取り巻き連中が、篠塚さんと河野になったら自分たちはって……、ぐらいかな」

「おい、片岡、みんなも、ちょっといいかな」
答えのない、どうしようもないことだけに、切り出したくない。誰かが言い出してくれればと待っていたが、しょうがない。どうしても、はっきりしておかなきゃ気がすまない。
「選挙には負けっこない。篠塚さんの部長は間違いない」
みんなの浮かれた明るい顔が能天気の馬鹿面にみえてしょうがない。
「はじめて、オレたちの仲間が部長になる」
みんな何を言い出したんだという顔をしていたが、塩谷だけが気がついて、俯き加減がひどくなった。

「みんなわかってるだろうから、こんなことを改めて言うことじゃないんだけど、こう気持ちが高揚してくるとつい勘違いしかねないからな」
一呼吸おいて、みんなの顔をさっと見渡した。
「今回の選挙は、言ってみれば人気タレントを主役にした、どうでもいい映画みたいなもんだ。篠塚さんのおかげというだけで、オレたちの置かれた状況は何一つ変わっちゃいない」
「そうだ、藤澤の言うとおりだ。だからこそ今回の選挙戦を通じて、我孫子にも支持者の輪を広げなきゃ……」
片岡が話を自分のほうにひっぱりよせた。いくらひっぱりよせたところで、何をしたところで状況が変わるわけじゃない。
「おい、片岡、そんなことはわかってる。話をずらすな。問題がみえなくなる」
「何がおかしんだ。オレたちの基盤を作らなきゃって、何もおかしなことじゃないじゃないか」
「そうだ。片岡の言う通りで。これを機会に……」
森山が片岡に続いた。

何を言ってんだ。わかってんのかと呆れながら、
「二つの点でみんなに確認しておきたいことがある」
「さっきもいったけど、今回の選挙は人気タレントを主人公にした映画みたいなもんだ。脚本も演出も共演者もすべて、今までのまま、灰色の世界であることに変わりはない。みんな勝ち戦で意気があがって、何も変わっちゃいないことを忘れちゃまずいだろう」
「二点目は、オレたちがよく言ってる『大衆に依拠して』ってのが多少なりとも成り立つ可能性があるのかってことだ」
「なんだ、藤澤、またその話か」
「そうだ。オレには答えがない。答えがないから考えないでってわけもいかない。選挙も支持者も、そりゃあ、やる。ただやるにしても、初めとやった後の、こっちのほうが重いけどな、気持ちの整理はしとかなきゃならないし、一年後のことも考えておきゃなきゃならないだろう。みんなには悪いが勘弁してくれ。ここを整理しないとどうにも気がもたない」
塩谷だけが当事者としてわかってる。塩谷とは立場が違うにしても、みんなもわかってる。わかっているのに気がつかない振りをして、日向だけをみて先に進もうとしている。

「オレが入社する前の話だけど、習志野から福田さんが部長になった。みんなも知ってるだろう。会社からも組合からもいじめられて、任期を終えたら即子会社に飛ばされた。久留米高専を出て習志野で職工さんに混じってマシニングセンターをつかってた。出向の辞令が出たとき、組合は何も言わなかった。誰も何も言わなかった。噂じゃ組合幹部がいられちゃ困るってんで左遷を具申したんじゃないかって話だ。本当かどうか知らないが、そんな噂がたつ状況があったということだ。それは今も変わらないし、一年後も変わっちゃいないだろう」

福田さんの名前をだしたことで、みんな何を言い出したか気がついた。気がついているのに、気がつかない、つかないでもいいじゃないかという言い訳半分で、自分自身にできっこない説得をして、納得しているかのようにしてきた。
「篠塚さんの部長は間違いない。ただ、毎日の、それこそ普通の生活のなかで、労組も我孫子の青年婦人部の中核メンバーも篠塚さんをつまはじきにするだろう。ここで河野がどれだけ篠塚さんを支えられるかというのもあるが、それも部長の任期が切れるまでの話だ。一年後には、子会社には福田さんがいるから、たぶん営業所だろう。運がよければ東京、下手すりゃ大阪か福岡だ」
おいおい、さっきまでの明るい顔はどうしたって言いたくなった。嫌でも向き合わなければならない事実が事実としてあるだけじゃないか。まさか見ようとしないで、このままって思ってたわけじゃないだろう。オレたちそこまで馬鹿でもないし、抜けてもいないよなって続けた。
「篠塚さんだって馬鹿でもあるまいし、そんな危険を冒してまで部長に? 普通に考えれば、そんな選択肢はない。仕事を覚えなきゃならないときだからと言って断ってきたが、そんなもん半分以上自分に対する言い訳だったろう。工業高校を出て、十年やってやっと一人前のとはいっても、まだまだ若手の職工さんにはなれた。そこまでは、たぶん篠塚さんが就職するときに思い描いていたことだと思う。そこで篠塚さんが何を考えているのか、俺にはわからない。塩谷は付き合いも長いし、三年以上説得してきたんだから、篠塚さんの気持ち、わかってんじゃないか」
俯いたままで塩谷は何もいわない、というより言えなかったのだろう。

「いいかみんな。オレたちが相手にしてるのは『がんばろう』の後に『同期の桜』を平気で歌う連中だ。片岡が口癖のようにいう「大衆に依拠して」というのはわかる。それ以外に社会のありようがないし、オレたちのありようもない。ロジックじゃわかるが、福田さんの例もあるように、オレたち活動家を見殺しにしてきたというか、そんなことを感じることもなく日常が流れているだけの人たちが、オレたちが相手にしなきゃならない大衆だってことだ。好きとか嫌いとかって話じゃない。ただの現実だ」

誰も何も言わない。人間、都合が悪くなるとだんまりになるか、ロジックもへったくれもなく言い返してくるというのか突っかかってくる。どっちでもかまいやしないが、誰がなんと言おうと、言い訳しようと、あるいは頭から否定して押し返しきたところで、事実は事実、見ようによってどうにでも見れるような、あまったれた事実じゃない。否定しようのない事実をつきつけられて、そこから逃げてちゃ人としてのありようが問われる。

「オレたちの思い、そんなもの、傍からみればオレたちの勝手な都合だといわれるだろう。親しい仲間が将来を棒に振るかもしれないことを塩谷に頼んでやってきたんだ、と言ったらいいすぎか」
「おい、塩谷、お前と篠塚さんの仲だ。わかってんだろう。篠塚さん、もう工場はいいから外の経験をしてみてもいいって思いだしたんか」

ここまで言っても、みんな、片岡も含めて誰もなにもいわない。こんなこと言わなくたって、みんなわかってることだ。ただ、今までとは違う。篠塚さんはオレたちの支持者、固いにしても支持者にすぎない。ただの支持者に留まっていれば、人望のある、将来のある若手の職工さんですんだものが、立候補したとたんに、たとえ圧倒的な得票率で部長になったにしても、遠からず営業かどこかに飛ばされる。

それをわかってて、担ぎ出して、担ぎ出した人の個人の人気で勝ち戦さ。人の人生までどうのこうのと言える立場でもなければ、頼まれたところで何ができるわけでもない。でも、その人の人生に多少なりとも責任を感じずには選挙活動もへったくれもありゃしない。こんなことを繰り返して、なにが将来に向けた基盤づくりだ、なにが支持者の拡大だ。そんなことみんなわかってて、どうにもできない気持ちを抱えてやってきた。

オレたちがいう「大衆に依拠して」ていう「依拠できる大衆」って、ほんとうにいるんか? もしいるんだったら、一人でも二人でもいい、どこにいるんだって問わずにはいられない。問うたところで、答えなんかありゃしない。問えば問うだけ霧が濃くなる。先の見えない、ゆっくりした自殺行為なのかもしれない。みんなわかってることだが、誰にも答えがない。あるとしたら、そんな答えは嘘だろう。嘘でも答えがほしいときもあれば、嘘の答えを言わなきゃならないこともある。でもそんなんでいつまで気持ちを持ち続けられるのか。一人、また一人と出て行く仲間の背中を見ながら、何にしがみついてるのかと自問してみても、どこにも答えという答えがあるとは思えない。そんなこと問わなくても、すぐそこに明るい出口がありそうな気がする。その誰かが誰かの都合で用意してくれた出口が答えなのか。なにがなんでも、そりゃない。そんな出口を出て行った日にゃ、今まで何をしてきたんだという別の疑問を抑えきれない。最後は自分を否定することでしか生きられないのか。
2019/7/28