自分を偽って、人を騙して(改版1)

女性社員が突然辞めた。結婚して生活も落ち着いて、家でしっかりしなきゃと考えての退職だと聞いていた。一ヶ月ほどして、同僚の女性から辞めた理由を聞いて驚いた。
「営業のお局さんとそりが合わなくて、もうやってられないって辞めちゃったんですよ」
お局さんは、若いころ歴史のある会社で教育されたのだろう、電話の取り方一つにしても、女性社員には口うるさかった。マーケティングで営業と関係する仕事は頼んでなかったが、派遣という立場もあって、お局さんから距離をとるのには勇気がいるのだろう。
上司として、同僚として見ている限り、お局さんとは仲がよさそうにしかみえなかった。毎日のように一緒に昼飯にいって、事務所でもとりとめのない世間話をしては笑っていた。演技が上手だったのか、観察力がなさすぎたのか、人はわからないという、くすぶっていた不信が湧き出てきた。誰も彼もがうわべの調子よさの裏に本音を抱えているようにみえてくる。本音なんか知ったところで、嫌な気持ちになるだけだろうし、知らないほうがいいと思いながらも本当のところはどうなんだろうと気になってしょうがない。

翌日、言い出したことが気になったのか、また同僚が言ってきた。
「お昼を一緒にするたびに胃が痛くなるのを我慢して行ってたって言ってましたよ」
仲間外れにされるのを恐れてのことだろうが、なんでそこまで無理をするのか。改めて周囲を見渡せば、辞めた社員が特別とも思えない。みんな多かれ少なかれ似たようなことを毎日繰り返しているようにみえる。相手に、周囲に合わせて、その時々の話題の流れにむりやり乗って、その場その場を取り繕って、いったい何の意味があるのか。どう考えても、自分を偽って、自分を隠して、相手や周囲の人たちに作った自分をみせて、みんなをだまし続けて、あげくの果てがそんな自分に疲れちゃってということじゃないのか。

よほど変わった人でもなければ、人間誰しも周囲の人たちや関係する人とはうまくやっていきたいと思っている。思ってはいても、偽りの自分で相手をだましてまではないだろう。もっとも、そういう自分も、だましてまではないと思ってはいるが、似たようなことは散々してきた。仕事でもプライベートでも、まったく知らないところに新参者として入っていけば、先達にできるだけよい印象をと取り入る気持ちもわいてくる。知らないことばかりで、いろいろ教えていただきたいという気持ちもあるから、傍からみればへりくだった姿勢にみえただろう。ただ、幸か不幸か、つくった自分でいつまでも演技できるほど器用じゃない。

たとえ知らない世界であったにしても、三月も過ぎれば慣れてくる。半年、一年とその世界にいれば、否が応でもおおまかな風景はみえてくる。そして三年にもなれば、そこにいる人たちの上っ面に隠された見たくないものまで見せられて、恐る恐る足を踏み入れたときには新鮮だった風景も色あせている。見方によっては、その程度で見えてしまう上っ面の世界しか見たことのないということかもしれない。出自もしれた巷の一私人が知りえる世界とはその程度のものでしかないのだろうが、その程度が巷の世界ということじゃないかと思えば、その程度の世界が普通の人たちの世界ということで、なにも卑下することでもないだろう。
こうなると、もう低かった腰も頭も下げたままではいられない。意識することもなく、いつのまにか本来の自分が頭をもたげて主張しだす。

未知だった世界の底が割れたとたん、当初のへりくだった自分を思いだしては、卑しいことをしてきたと自責の念が湧き出してくる。自分を偽って外面を作って人に取り入ろうと、あれやこれやのしてきた下手糞な演技が恥ずかしい。一刻も早く、情けないと思えるところに至らなければ思う一方で、そうなればそうなったで新しく創りだそうとしてきた、萌芽的なものにしても生まれてきた視野が雲散霧消しかねない。しかねないのは気になるが、偽りの自分で周囲の人を騙し続ける演技などできるわけもない。なくなったらなくなったでいいじゃないか、と生まれてきた視野を更地に戻して再構築の作業にとりかかる。そうでもしないと生まれる過程で入り込んだ夾雑物を抱え込んだままになりかねない。

子供から大人まで空気を読むだの読めないのだとか言い出したのはいつごろからなのだろう。六十年代にも七十年代にもそんな言い方があった記憶がない。空気を読むのが、普通の社会生活をおくるために必須のものと考えて、読む技術に磨きをかけて集団の和を保つことを優先してなんになるのか。空気は読んで当たり前、上手に読めないヤツは困り者で、そんなのが一人いるだけで社会集団としてなりたたなくなると爪弾きにされる。言わんとしていること、わかりはするが、空気を読まなきゃ存在しえない自分や所属しえない社会集団とはいかなるものなのか。

空気を読んで、場を保つ。保つために自分を偽る。豊かな時代になって、視野を生み出す過程で紛れ込んだ夾雑物によって人としてのありようのもっとも大事なところが奇形化してきたような気がする。

あらためて歴史をちょっとみれば、奇形化した精神構造がみえてくる。個性を押し殺した集団主義に洗脳されてきた人たちが、占領軍がもちこんだ民主主義の余勢をかって、一気に束縛から開放された。しかし、それはかたちの上でのことで、社会のありようも人々の思考もその慣性も突然変わるわけじゃない。ある朝起きたら、今までとはまったく反対の文化がぽっとでてくることなどありえない。戦後長い時間をかけて、やっと個性的な教育だとか個人の自由だとか、人それぞれのこだわりだとか口にして、個人のありように寛容になってきた。経済成長もあって生活水準もあがって、食うや食わずの状況から飽食の時代になって、社会が、人々の思いが多様化してきた。自分(たち)とは違う人やものを受け入れる文化が生まれてきた。

そこで生まれてきた、長い歴史や文化に価値観に裏打ちされていない、即席の社会集団をそつなくまとめていくために、集団内の人たちに、個人の主体性や個性を抑制することが求められた。個人と個人の関係は個人個人の人間性の自由な、そして社会良識に基づいた発露から形成さえるもののはずなのに、そういう個人と個人のあってあたりまえのぶつかり合いから社会集団を構成してきたことのない文化のもとでは、個人を抑えてでしか社会集団を保てない。保つために必須の人と人とかかわりを生み出す引力のようなものを生み出せずにいる。ここから、集団内にいるかぎり、その集団の時々の状況に適応――迎合といったほうがいいかもしれない――することが求められる。それは、軍事独裁政治が一般大衆を自分たちの都合のいいように管理するために作り上げた隣組の精神構造に似ている。

上手に空気を読んで集団のなかに埋没する人たち、人として恥ずかしくないのか。直裁にすべてをさらすこともないが、とりつくろうためについた嘘が嘘をよんで、嘘が積み重なってその重さで身動きとれなくなって自己崩壊。なぜそこまで自分を偽らなければならないのか。偽らなければ他人と一緒にいられないのだとしたら、それこそ精神障害じゃないのか。それを空気を読むなんてことで正当化しえるとでも考えているのか。

程度の違いがあるにせよ、空気を読む、それも上手に読むということは自分を偽って、周囲の人たちを騙しつづけることに他ならない。上手に空気を読み続ける人たちが群れて、個人をはじき出す。そのような人たちとは、付き合わなければならないにしても、距離をあけておきたい。
空気は、その場の空気を読むのではなく、自分の空気を噴出すものだ。自分の空気とはなんなんだと考えたことがあるのか。なんなんだと自分を説得できなければ、他人なんか説得できるわけがない。説得できないから、人の空気を読んでってことじゃないのか。読めないヤツのほうがよっぽどいい。
2019/7/7