便利になって、せわしなくなった(改版1)

就職して、安月給にしても親の目を気にすることもなく使える金ができた。寮で朝と晩、昼は工場の社員食堂だったから、見かけのエンゲル係数は極端に低い。豊かな?、当時の言葉でいえば、独身貴族のような生活だった。酒を飲むわけでもなし、車も転がさない。ただ仕事で求められるものが能力を超えていて、いつどうなるかわからない。仕事がそのままギャンブルのような気がして、パチンコやマージャンどころか、競馬なんて考えたこともなかった。小心者の自己抑制のせいで、遊びという遊びからは程遠い生活だった。

必要に迫られて、時間があれば技術の本や社会経済の本を読み漁っていた。一つわかった気になると、その先にあるわからない、いくつものことがぼんやりと見えてくる。本から本へで多少なりとも高揚感があったのだろう、コーヒーミルとサイフォンもってきてコーヒーを入れていた。そんなある日、コーヒーはもういい、きちんとした紅茶をと思い出した。どこかで聞いたジャクソンをと思ったが、柏や松戸あたりでは見つからない。日本橋の三越まで行けばあるだろうと出かけていった。トワイニングのレベルじゃない。値段は何倍もしたが、一度は飲んでみなきゃと買ってきた。寮住まいの無趣味だからできるささやかな贅沢だった。

その後ニューヨーク支社に駐在にほっぽり出されたり、何度か転職しているうちにコーヒー党になって、紅茶をすっかり忘れていた。結婚もして子供もできて、紅茶がどうのという気持ちの余裕もなくなった。仕事でジプシーのようにあちこち飛び回っていたが、五十も半ばをすぎて、子供の教育もひと段落ついた。ほっとしたこともあってか、はたと紅茶はと思いだした。
少々高くてもと探しにいったが、ジャクソンはみつからなかった。もう独身貴族でもなし、トワイニングや似たようなレベルの紅茶でいいじゃないかと買ってきた。缶を開けて、なんだこりゃと思った。ダージリンの葉っぱが紙巻タバコのように細かく刻まれていた。ダージリンといえば大葉が、少なくともかつては常識だった。同じダージリンにしても茶葉に昔の面影がない。

紅茶メーカにしてみれば、大葉を細かく刻む工程が増えるだけだろうし、なんでと気になってWebでみてみた。どこまで事実かわからないが、納得してしまった。忙しい、とくに若い人たちが、大葉がゆっくり開いて紅茶が抽出されるのを待っていられないらしい。忙しい毎日だからこそ、ときには茶でもいれて憩いのひとときのはずが、ゆっくり楽しむ気持ちのゆとりがなくなってしまった。忙しいのは今に始まったことでもなし、なにが「忙中閑あり」をかつての文化にしてしまったのか。

技術革新が人々の生活を大きく変えてきた。井戸から水をという時代でもなければ、洗濯といっても何か特別な理由でもなければ手洗いはない。家中に便利な家電製品があふれている。仕事にしても、コンピュータと通信ネットワークのインフラにのった定型業務が増えて、人が介在することが極端に減った。昔は手紙一つ書くにしても手間隙かかったが、いまやメール一本、急ぐときにはSNSで、時間という時間もかからない。なにからなにまで便利になった。便利になったおかげで、忙しさが軽減されて、気持ちに余裕がでてくるものだと、なんの疑いもなく思っていた。

この便利になった、なんでも手間隙かからなくなったことから、何にしても手間暇かからない方法を求める社会が生まれた。日本茶でも紅茶でも、コーヒーでももうお湯を沸かしてよりPETボトルからカップに注ぐだけが普通になってしまった。法事にいったお寺で冷たいお茶ができたが、小さなお寺で熱いお茶を冷す手間をかけているとは思えない。家族や知り合いと一緒に食事に行って、あまりに寸分たがわぬものが出てくると、そこのキッチンではないだろう。素人目には、工場生産の冷凍品を加熱するのが調理になってしまったようにみえる。

待てないということでは、もう二十年以上家では数えるほどしか湯船に使った記憶がない。家族の間で生活の時間帯がズレていることもあって、みんなシャワーしか使おうとしない。もう何年も前から台風情報のように何かがなければ、テレビも見なくなってしまった。じっと画面を見ていられない。

便利になって、プラグ・アンド・プレイの生活になれきって、手間隙どころかちょっと待つことすらままならない、せわしない生活になってしまった。便利になればなるほど、人は待っていることができなくなっていくような気がする。
2019/10/27