帽子が手放せない(改版1)

引越しで本の整理をしていたら昔の写真がでてきた。社員旅行で伊東に行ったときのもので、三十名ほどの集合写真と同僚が撮ってくれた一枚。ほかの写真と一緒にするのが面倒だったのだろう、本にはさんであった。集合写真が懐かしいい。三十をちょっとまわったころのもので、翻訳でお世話になった人たちが写っていた。これは宮川さん、これは乾さん、これは鬼頭さん……とわかるのに、どれが自分なのかわからない。いくら見ても自分が見つからない。そりゃない、どこかにいるはずだと探しても、もどこにも自分がいない。

ホラー映画でもあるまいし、どこかに自分がいるはずなのに。なんでいないんだと思いながら、写真を入れてある杉の箱を引っ張りだした。きちんとアルバムにでもしておけばと思いながら、生来の不精者で写真は贈答品の羊羹かなにかが入っていた箱にいれたままになっている。そこには赤ん坊のころから、社会人になって間もないころまでの写真が入っている。集合写真をいくつか並べて、社員旅行のものと比べてみた。十代、二十代のころの写真には、誰がみても別人としか思えない自分が写っている。
こんな自分もいたのだと、若かったころの証拠のように、ニューヨークに駐在していたときに通ったコミュニティカレッジの学生証を財布の中に入れて持ち歩いている。ガリガリに痩せて、流行の長髪。誰にでも若いときはあったんだと確信させる写真。見るたびに、変貌ぶりに自分であれきれ、他人は目を疑う。そんな写真があるから、今の自分も想像できるというか、変貌を受け入れる心の準備もできるのだと思っていた。ところが、社員旅行の写真では、もしかしたら、これがオレなのかというまでしかわからなかった。

高専では写真部で、街のスナップを撮り続けていた。ところが自分の写真となると、とくに三十過ぎからのものは、何かの時に同僚が撮ってくれた数枚しかない。もうすぐ古希を迎える年になろうとしているまでの写真が、歴史としの写真がない。
写真をみて昔を思い出すような生活なんか冗談じゃないという思いもあって、残さないようにしてきた。そのせいで、数十年間の曖昧になってきた記憶はあっても写真という記録がない。

まさかこんなことになるとは想像もしていなかった。児雷也のようにぼさぼさだった髪が、五十の中ごろには寂しいことになりそうな予感させるものになっていた。刈り上げていたこともあって、もしかしたらとは思っても気にならなかった。それが徐々に寂しさをまして、草原ようになって、いまやオアシスの周りを囲む灌木ような感じになってしまった。温暖化による砂漠化を自分の頭に感じる。床屋に行くたびに、いやでもそれを確認する。鋏の音はしても、エプロンの上に落ちてくるものが加速的に少なくなってきた。

ある朝、いつものようにホームで電車が来るのを待っていたら。秋晴れの日差しものと穏やかな風にまばらな細い葦のような髪が吹かれた。そのとき初めて頭皮に直にあたる風に気がついた。電車の窓ガラスには自分で思っている自分とは違う、あまりに違う自分が映っていた。

もう十年以上前になるが、床屋にいった翌週、どうも頭が痒いといのか、なんか変だと思って、軽く掻いてみた。どうもおかしい。お辞儀をしながら上目遣いをするような感じで洗面台の鏡に映った頭をみたら、日に焼けて赤くなっていた。帽子をかぶるなんて考えたこともなかったが、このまま夏の太陽にさらすのは考えものと、ボストンにいたときに、モールでなんとなく気に入って買った野球帽子を探し出した。

帽子を被ると、それだけで頭に熱がこもって暑い。いらぬ汗をかくことになるが、さりとてなしでは直に日に曝されて暑い。食事にいって、帽子を被っているのも変だし、暑いしでとるのはいいが、ちょっと横に置くと忘れてしまう。何度か忘れて、そのたびに行ったところに電話して、帽子の特徴を言って、取りにいったことがある。野球帽では「つば」が邪魔で折りたためない。そこでバケットハットに切り替えた。布製でやわらかいし、脱いでたたんでポケットにいれてしまえば、置き忘れることもない。
被ればどうしても汗になる。夏用と合い物に冬用を二枚ずつそろえて毎日洗濯機に放り込んでいる。冬には毛糸の帽子でも被らないと、風が冷たい。
まさか帽子を手放せない生活になるとは想像もしたこともなかった。

ある日、お使いでサンシャインの先を歩いていたら、上の方から「あっ」という声とともに洗濯ばさみが落ちてきた。幸いバケットハットのつばにあたったからよかったようなものの、もし頭皮にあたったら、バンドエイドのおせわにならなきゃならない。本来頭髪で保護されているからだろう、頭皮はラテックスと似たような厚さで、手や足のようには強くない、ましてや面の皮などとは比べようがない。

もう髪型なんて気にするにもしようのない頭髪。床屋にいってもシャンプーなんかしてもらうのもためらうし、お金ももったいない。整髪料もシャンプーもいらない。
薄皮一枚に近くなった頭をみるたびに、生きてりゃ必ず肉体的にも生理的も劣化するのを実感する。実感しはじめてからが、残り時間が少なくなったのを自覚してからが人生じゃないか。そうしなきゃって毎日考えて読んで書いて、それも続けられるうちが人生ということなのだろう、と思うと、どうにも時間が気になってしょうがない。

しなきゃならないことも、したいことも山ほどあるのに、したくもないことや、しなくてもいいことに時間を割くのは、あまりにもったいない。演題に惹かれてでかけてみれば、内実という内実もないセミナー、呆れるだけならまだしも、時間を損したと後悔する。ときには、オレの時間を返せと、腹が立ってくることもある。
貴重品と化した毛髪以上に限られた時間、五十代までの一年とは重みが違う。来年という一年はないかもしれないのだし。正月早々、こんなことを考えてしまう。せっかくの正月なのに。
2020/1/26