著者もわからないから(改版1)

機械屋になりそこなって、三十半ばでアメリカの制御屋でマーケティングとしての道を見つけた。それからというもの、還暦過ぎまで英語(と多少は日本語)で技術や市場と財務に関する知識の吸収に明け暮れた。ときには仕事の九割以上が英語だったこともあって、仕事の上でという限定つきにしても、英語ならなんとかなるようになっていった。
英語はいいが、疎遠になって崩れていった日本語を心配していた。もう五年ほどになるか、一線から身をひいて、もう一度社会人としての常識というのか、知っていて当たり前のことを知らなければ、そして何に増しても荒れてしまった日本語を勉強しなおさなければと思った。いい歳をしてというのも変だが、文学的素養のないことに何ともいえない引け目がある。

一従業員として雇われたにしても傭兵のような立場、事業を建て直そうとすれば、それまでと同じようなことを繰り返してはいられない。去年の自然延長線ではすまされない。限られた時間のなかで目に見える成果を求められて、付け刃のような知識で走り続けざるをえない。そうはいっても、いつまでも間に合わせでどうにかなるわけでもなし、たとえなったところで、基礎をしっかりしなければ遠からず、つじつまが合わなくなって破綻する。
どうしても、ときどきの必要に迫られて知識をになるから、読むのは技術書にしても経営や経理にしても実務書が中心になる。小説や詩など人文系の本にさける時間はない。高専の機械工学科、技術知識の詰め込み教育のなかで、国語や古文、英語や第二外国語など気にしている余裕はなかった。十代の半ばから還暦すぎまで、人文系の知識といえば、経済学とささやかな哲学とあるのかないのかわからない程度の社会学関係だけだった。

十年ほど前、遭遇したことや考えてきたことを誤解されること(少)ない、平易な日本語で書き残そうと思いたった。そのためにはまず日本語を勉強しなければと小説を読み始めた。実務書に埋もれてきたからだろう、風景や情感のしつこい描写には耐えられない。作家の独自性とでもいうのか、故意に作り上げたとしか思えない晦渋な文体にはついていけない。
表現や文体に個性?――どう書いているかも気にはなるが、何を言っても書いても、中身がなければ、ただの七面倒くさい読み物でしかない。なかにはそんな面倒すらもないダレ文もある。新聞も雑誌もちょっと気にしてみれば、ダレ文で嵩をかせいでいるのが見つかる。典型的なダレ文は飛行機の座席の後ろのネットに入った雑誌に載っている。そんなものでもプロのもの書きの文章、流れはしっかりしている。写真もあれば宣伝のスペースもあるからたいした文字数でもない。おかげで、何も引っかかることもなく、するっと読める。するっとはいいが、よほどのことでもない限り、読むのに使った時間に相応する内容はない。フリーペーパーのスペースを埋めるためのもの、人生の最後の整理の手引きにはならない。

身のある、作家の必然として生まれた、リズムのある文章を読まなければとあちこち手をだしてきた。日本語の本に限定して、翻訳ものは避けてきた。翻訳では作家が一文字一文字神経をすり減らしたであろう文章の流れもリズムも抜けてしまう。日本語をきちんとしようとしているものには、翻訳本は、なんともしっくりこないシャツやパンツのようなもので、読んではいけないと思っている。
日本語の小説でも、書き始めから中段まではいいのに、最後の締めがないものが(とくに月刊誌に)多い。〆切にあわせて、約束したページ数に持ち込むために原稿用紙を埋めたんじゃないかという結末に、これがプロの作家の仕事か、ちんけな売文家業の成れの果てじゃないかと思うことがある。

一消費者から、曲がりなりにも生産者にと思えば、それで禄を食むつもりはないにしても、書き流したり、作り物の個性をはった書き方はできない。そこはアマチュアの強み、もの書きで食ってかなければならないプロが見せるみっともないことはしたなくないし、する必要もない。

それにしても読み終わって、いったいなにを言いたかったのかわからないものが多いのに驚く。書いた人のおかれた状況や個人としての思いなど、さまざまなことが絡み合った上で書かれたものだから、ポンと一冊読んだだけではわからないのもわかるが、書かれた状況を調べた上でなければわかりようのない小説には、著者のエゴにちかいものを感じる。

何かの本で、たしか遠藤周作だったと思うが、次のように言っているのをみつけたときは、やっぱりそうなんだとほっとした。
どこかの大学の入試問題に使われたはいいが、著者の思いを述べよという設問を見て、おいおい、何をいってんだ。そんなこと書いたオレだってはっきりしないんだ。受験生が「はい、こうこうこうです」、試験官が「そう、こうこうこうです」。そんなことありっこないだろう。

誤解されることの(少)ない、簡単明瞭な文章にしたところで、書いた人の視点や考えがそのまま読む人の視点にはならない。こう思って、間違いなくこう読んでくれるはずだと思って書いても、読む人は読む人の都合で、立場で、思いで読みたいように読む。それじゃ困るといっても、どうにかできることでもない。好き嫌いではなく、事実として認めるしかない。

読書会など考えたこともなかったが、Webでみたらあちこちで定期的に開かれているのが見つかった。読書会? 行ったところで疎外感を味わって帰ってくるだけだろしと思いながらも、何をどう読んでどう評価しあうのか気になってしょうがない。負担にならなそうなのに申し込んで、普段着の気持ちででかけていった。
課題作が二つ。「バナナフィッシュ」と「笑い男」。どちらもJ・D・サリンジャーの短編小説集「ナインストーリーズ」に収録されている。読書会に出てみたいという誘惑にかられて、翻訳ものは読まないことにしていた禁を解いた。翻訳本くささはあっても読み辛くはない。でも、著者がどういう社会背景のもとに、どういう社会的、個人的環境におかれて、何を言わなければとして書いたものなのかわからなかった。人文系の人たちのなかには、そのあたりを根掘り葉掘りして論文なんてこともあるのだろうが、それは研究者のすることだろう。読者はただ巷で手に入るものを読むだけで、それ以上を読者の求めるのは間違っている。

課題作はするっと読めた。なんの抵抗もなく飲み込んだといってもいい。ただ胃が拒否しているわけでもないのに、消化活動が始まったような気がしない。飲むには飲んだ。だけど生理活動も始まらなければ精神活動にいたっては平静そのもの、読んでないのと何も変わらない。ガルシア・マルケスを読んだときとは違う。
読書会で数名の方々から、どう読まれたのかお聞きしよう試みた。そんな目論見、外れるに決まってると思ってはいたが、きれいに外れた。だれも作品の歴史的、社会的、作者の個人的な行きがかりまで調べて読んじゃいない。するっと読んだだけだろう。読んでないのと何が違うのか。たぶんその人たちにとっては何かが違うのだろうが、その違いを他人に言葉で説明できる、説明を試みるところまで読めてはない(としかしかみえなかった)。
そんな読書から生まれるものの多くは、後日なにかのときに、XXX(著者名)はYYY(本から拾った語句や一節)と云っていたという、知識の開示ぐらいだろう。それじゃ、読まないよりは読んだほうがいいというだけの読書になってしまう。

実務書のようにすべてを明確に書き表せることばかりでもなし、人間のありようには書き表しえないことのほうが多い。著者は著者の思い、読者も読者の思い、それが読書という過程で絡み合って何かが生まれることがある。著者自身、何を伝えたいのかを言語で明確に提示しえないものを書いていることも多いだろうし、ときには昇華(消化)しきれないまま書いたとしか思えないものもある(としか思えないことがある)。はっきりしない内容からというより、はっきりしないからこそ、読者が読者の限られた知識と勝ってな思いで読んで何か意味のあることを思いつくこともある。一つのきっかけとしての読書、ここに読書の意味がある。言い過ぎじゃないだろう。
2019/11/3