血なんですよ(改版1)

子供が幼稚園のころ、南行徳に住んでいたこともあって、毎週のようにディズニーランドに、ときには夢の島熱帯植物館や葛西臨海公園に出かけていた。どこも家族連れやカップルがちょっと遠出という感じできている。ある日たまには違うところと、水元公園に行ってみた。
いつも目にしている人たちとは違う。近場の人が多いのだろう、下町の雰囲気なのか、郊外のサラリーマン家庭にはない何かがある。あちこちで数人集まって、ご近所さんの感じでいつもの世間話をしている風だった。鯉をねらってリール竿のオヤジ連中も顔なじみなのだろう。釣りを楽しむというより、一服やりながらのんびり世間話にひたっているようだった。

一緒に走り回る元気がなくて、娘が二人であっちにいったりこっちに走ってくるのをみていた。親から遠く離れたことがないから、いくら遠くといってもしれている。一卵性の双子で同じものを着ているから目立つ。そこに、いかにもエプロンだけは外してきましたという感じの年配の女性がよってきて、何か娘にだしている。距離にして十メートルかそこら、遠目にも表情まで見える。娘が二人してどうしていいのかわからない顔をして走ってきた。近所付き合いもほとんどないから、見知った人からでも何かもらったことがない。見ず知らずの人から、恥ずかしさもあってのことにしても、やっぱりオレの子だと思った。

さし出したお菓子をもらおうとしない娘に驚いた様子で、女性が剣のある口ぶりで言ってきた。
「お菓子きらいなの、毒なんか入ってないのに……」
いい人なんだと思う。思いはするが、世の中いい人ばかりじゃない。千人、一万人に一人のおかしな人からもらって食べたらと思うと、他人からなにか食べ物をだされても、手をだすべきじゃないと思っている。でも、娘にそこまでの躾をしてきたつもりはない。
女性になんと答えたものか考えたが、血のせいにした。
「せっかくの好意を無にしてすみません。そんな教育はしてないんですけど、たぶん我が家の血なんだと思います。許してやってください」

そんな文化や家庭があることを想像できない日常で生きてきた人なのだろう。何も言わなかったが、あんた何様だと思ってんのって顔をして歩いていった。人の親切を踏みにじってとでも思っているのだろう。分かりはするが、ただ文化が違うだけで、こっちもただの普通の人だと思っている。
自分の親切がすべての人に喜ばれると疑うこともなく、違う価値観もありえることを想像できない人と出会うと、どうしたものかと重苦しい。親切は親切でありがたい。でも受け取れないこともある。なぜ受け取れないのかと訊かれて、そういう文化なんですよ、そういう家庭で育ってきたんでとでも言ったら、それこそ、おかしいって言われるのが関の山だろう。なんと言ったところで説明なんかつきそうもない。苦し紛れに血なんですよ、すみませんと言ってきた。
でもその血も、おかしいといわれたら、そうでしょうね、でも血だからしょうがないじゃないですか、とでも言うしかない。それでもなんか言われたら、うん、オレに言われてもねぇー、お袋に言ってもらえればと思うんですけど、十年前に逝っちゃったんでと逃げるしかない。

実家に連れて行ったときも同じことがおきた。お袋(二人からみれば祖母)が、孫がくるというので用意していたとしか思えない小さな包装紙に包まれたチョコレートだった。お袋がだしても、二人とも受け取ろうとしない。遠慮とは違う。もらい慣れなれていないこともあるが、血としか思えない。何度も会ったことのない祖母、娘二人には他人にしかみえない。両親以外から何か出されても、ましてそれが食べ物だと、受け取ろうとはしない。

世の中、説明できることばかりじゃない。下町の場末で生まれて、他人の食いかけを平気で食べる文化で育ってきたのに、いつのまにか他人から食べ物をもらって食べることができなくなっていた。いつごろからだったのか、なぜなのか自分でもわからない。
あるとき、母がなにかのときにポロっと口にしたのを覚えている。
「子供の口元についたご飯や食べものを、つまんで食べちゃうお母さんもいるけど、そんなこと自分の子供でも、とてもじゃないけどできない」
おにぎりもそうだが、人が剥いたみかんの一房など、出された日には身がすくむ。たとえ、それがもうすぐ結婚する彼女であっても食べられない。四人家族の食事、おかずはそれぞれ取り分けて、血から家庭の文化にまでなっている。
説明のつかないことに出会うたびに、なんとか説明がつかないものかといろいろ考えているが、最後は面倒くさくなって、しばし血のせいにして逃げている。
2019/11/24