タネホンと引用とインターネット

本や新聞を読んでいて、いくら考えても、こうじゃないかと思っていたことをみつけると、どこまで本当かと気にはなっても、考えてきたことが間違いでもなければ勘違いでもなかったんだと、ほっとする。ほっとすることばかりならいいのだが、そりゃないと言いたくなるものも、とくに新聞には多い。著名な権威もある人の発言だし、何か読み違えたのかと読み返す。やっぱり自分の判断が間違っているのではないかと不安になる。

おやっ?と思うものにかぎって、あっちに書いてあることとこっちで言っていることの辻褄が合わない。歯切れが悪いだけならまだしも、言辞を弄して恰好をつけているだけで肝心の結論がはっきりしない。読み返して、なんだそんなことか気がつくと時間を損した気になる。偉そうなことを言ってはいるが、本来あるべき視点を故意に?ぼかして、特定の社会集団の立場や利益の正当化以外に何があるとも思えない。

ところが、情けないことに、海外をもちだされると、そう言い切ってしまう自信がない。ましてや海外の、世界的に知られた(らしい)学者や研究者の、それも歴史的な論文を引用されると、原文にあたる知識や能力があるわけでもなし、状況も時代も違うんじゃないか、なにかおかしいと思っても手も足もでない。それは、まるで国境をまたいだ贈収賄のようなもので、国内の捜査のようにはいかないのに似ている。「信じる者は救われない」と思っているもの目には、舶来の権威をちらつかせて、ご自身も含めて誰かに都合のいいことを言っているようにすらみえる。

本でも論考でも海外からの引用が多いものは、それだけで、話半分としかみないようになってしまった。宗教でもあるまいし、唯我独尊からでた話など聞いてもしょうがないが、引用しなければ自分の考えを口にできない人たちの話にたいした意味があるとも思えない。都合が悪くなったら、責任はあっち、引用した 舶来品にあると開き直るんじゃないかと思うと、とでもじゃないが傾聴という気にはなれない。
明治維新でも戦後の復興期でもない、世界第三位の経済大国にまでなって、いまだに海外からの情報をもとにしか語れない学者や研究者、追っかけでもあるまいし、日本を文化的後進国にしておくことによってしか立場がないのか、と言いたくなる。

こんなことをあらためて思ったのは、野口悠紀雄『知の進化論』(2016年11月、朝日新聞出版)を読んだからだ。
ちょっと長いが、引っかかったところをそのまま引用しておく。野口悠紀雄の言っていることが間違っている、正しいと断言するまでの知識はないが、一読して、然もありなんとしか思えない。ただ今は昔と違ってインターネットという便利なものがある。学者や研究者のみなさん、昔のようにはいかないこと分かってますよね、と余計な一言を言いたくなる。

<引用始まり>
20年くらい前までは、洋書(という言葉は死語になりつつありますが)は、著しく高価なものでした。専門書になると、一般の人には手が届かないほど高かったのです。
このため、「どの大学にいるか」ということが研究成果に大きな影響を与えました。歴史のある有力な大学に在籍していれば、充実した図書館を利用できるからです(どの大学にいるかが違いをもたらすもう1つのことは、大型コンピュータを利用できるかどうかです)。
歴史のような文献学において、とりわけその傾向が見られました。こうした分野では、有力大学にいないと研究成果が上げられません。
ところで、こうした分野の教授で、『タネホン』を大学の図書館で注文し、納入されるとすぐさま借り出して借り続け、他の人が読めないようにする人がいました。「タネホン」とは、外国で新しく提唱された理論や発見が書かれた本です。これを日本語に直して、「最近の学問の動向は、このようなものである」というだけで、論文として認められたのです。
ただし、タネホンが誰にでも読めてしまうと、その論文は価値がなくなります。そのため、他の人には読めないようにする。知識を独占し、秘匿することによって、その分野の権威として学界に君臨していたのです。これは、作り話ではなく本当のことです。
<引用終わり>

『学問のすすめ』にタネホンがあることを知ったときは、なんだやっぱりその程度でしかないよなって、がっかり半分、ほっとしたことを覚えている。

どこそかのエライ先生の論を引用されても、初めて聞くお名前にご高説。分かったような分からないようなお話で、油職工のなりそこないには、「ああそうですか」としか言いようがない。そんなことが度重なると、素朴な疑問がでてくる。こうだと断言する知識もないし、自信もない。ただの個人の疑問、袋にいれて紐でしっかり縛っておいたが、紐が緩んでしまった。

明治維新以降、江戸時代までの文化を遅れたものと否定して、先進ヨーロッパの文化と技術を急いで取り入れた。技術は実学で、コピーでも模倣でも許される。そこは、先人が到達したところから改善してが許されるどころか、それが当たり前の世界。
ところが、人文科学や文化、芸術の世界では、そうはいかない。常に独自性を求められる、はず。
しかし、実際に起きたことは、工学における模倣にも及ばない、解説や紹介どころか、ただの翻訳にすぎないものまでが評価された。
結果的に研究は文献学の様相を帯びた。
その研究の文化のもとで教育を受け、研究者の道を歩んだ人たちや、その周りの人たちも、ヨーロッパ、あるいは米国の、しばしときどきの話題に過ぎないものにまで振り回されてか、振り回すことで立場を保つ社会ができあがった。その人たちの文章には、ヨーロッパやアメリカの先達の名前と言説の引用がついてまわるようになった。おかげで、エライさんたちの話は、引用抜きには始まらない。

インターネットのおかげで、タネホンでもネタでも見つけやすくなった。コピペがどうのと言ってるくせして未だにタネホン? まさかとは思いはするが、ありそうというより、引用がないと落ち着かないところで、ないはずがないとしか思えない。
巷の油職工のなりそこないの素朴な疑問、もしイラっときたら的を射てたのか、それともビーンボールなのか、どうなんだろうとあれこれ想像してしまう。
2020/2/16