仕事は覚せい剤のようなもの(改版1)

ドラッグは生理的、精神的な作用から対極の二種類に分けられる。一つは弛緩させるもので、その際たるものは阿片で酒にも似たような効果がある。もう一つは覚醒させるもので、マリワナやコカインにヒロポンもある。コーヒーに含まれるカフェインにも覚醒効果がある。
気がついている人も多いと思うが、仕事にも覚醒剤と似たような作用がある。仕事から生まれる緊張や精神的疲労を癒さんがために酒が手放せないという人たちもいる。

仕事でも個人生活でも、毎日同じようなことの繰り返しだけは避けたいと思ってきたし、今でも思っている。そんな個人の勝手な思い、お金をもらっての仕事の場で求めるのは、ちょっと利己的すぎないかと気にはなる。そのせいもあって、問題にはならないところに仕事を求めてきた。以下、還暦過ぎてやっと仕事中毒から抜け出た痴れ者の独り言、笑い飛ばしていただけたらと思う。

ぼんやりと薄日が差したような毎日で、十年経っても二十年経ってもさしたる違いのない世界もあるとは思う。それでも社会を突き動かす科学の進歩は留まるところしらないし、新しい知見に基づく実社会への応用も加速している。ITやバイオなど先端技術の世界では十年前のものは博物館行きで、三年、時には二年で先行していた技術が陳腐化する。

まるで短距離走のペースがマラソンに持ち込まれたかのように、誰もが一歩先にとしのぎを削っている。そんな社会じゃ人間らしい生活など望むべくもない、穏やかな社会へと思いはしても、ほとんどの人はいやがおうにも競争社会で生きていくことを強制されている。競争が常態化した社会に生れて、競争づくめで育って、明けても暮れても競争のなかでの生活しか考えれなくなっている。それがあたかも人としての性にまでなってしまった感すらある。

競争の厳しい業界では、自社を、自分たちを乗り越えるのは自分たちでなければならない、他社に乗り越えられたら競争から脱落するという考えが染みついている。何があっても間違っても、同業に乗り越えられるようなことがあってはならないという恐怖を背に走り続ける。そこでは自社から自分たち、そして自分へと、自分を乗り越えるは自分でなければならないという強迫観念がさらなる強迫観念を生み出す。価値観の転倒でも起きないかぎり、強迫観念のスパイラスは止まらない。最後は誰とではなく自分との競争に陥る。楽をしたい、気持ちにも体にも余裕をと思う気持ちを抑えて負荷を背負い続けてどころか、負荷を増やして意気に感じる精神構造がつくりあげられていく。

目の回るような忙しさ、もうこれ以上はという限界にまできているのに、もっと負荷を増やしてという気持ちの張りが暴走して、燃え尽きるまで止まらない。燃焼しきったところで、それまでとはまったく違う、新たな視点から自分を見直すきっかけを見つけることがある。ことがあるという可能性であって、気がつかないまま生涯現役などという響きを抱きしめて、職業人として一生を終える人もいる。

大変な、同僚には手に負えない仕事をやってのけたときの充実感が精神を麻痺させる。仕事は覚せい剤に似たところがあって、一つ乗り越えると、もっと峻嶮な、だれも手を出そうとしないチャレンジの機会を求めるようになっていく。ヘトヘトになりながら一つやり遂げると、組織の期待も大きくなって、自負の肥大も手伝ってもっと厳しいタスクへの挑戦へと自分を駆り立てることになる。マリワナの吸いすぎから、もっとハイになれるコカインに、そしてもっととLDSに手をだすのと似ている。ときには行き過ぎた緊張を解きほぐすために酒が欲しくなる。ビールではいくら飲んでも酔えなくなって、焼酎やウイスキーのストレートになって量も増えていく。仲間内との飲みだけだったのが、独りのときでも朝から酒になるようなことになる。
ドラッグも酒も過度の精神的緊張が人の弱みにつけこんで入ってくるようなもので、仕事や社会が生みだす必然(?)悪のようなものだ。

個人的な趣味のような世界に張りのある生活を求められる人は幸せだと思う。ただその幸せ、勤労という社会生活から距離を開けることによってしか得られないんじゃないかと思うと、どうしても仕事の場での緊張への気持ちがなくならない。
夢中になりすぎて、周りが見えなくなりかねないが、そんなことを気にしているようでは、しなければならないことができない。燃焼願望も末期症状にまでなって、やっと這い出してはみたものの、それでも一所懸命になれることがあるうちは幸せじゃないかという思いは変わらない。緊張なしには落ち着かない、仕事以外では当事者としていようがないという中毒の後遺症は大きい。
2020/05/21