調べる能力(改版1)

何事も知ることから始まる。どこかで聞いたような言い草、あまりに当たり前で、だからどうしたとしか思えない。問題は知ったことを整理して体系だった知識として、なにをするでもなく、当たり前のように使えるレベルまで昇華できるかにある。それにしても、まずは知っていることから始まることだけは間違いない。

知っていることからはいいが、誰もすべてを知っているわけではない。知っていることからという前に、知っているという状態に至る手段というのかプロセスの話なしでは、それこそ何も始まらない。至る手段となると、家庭における教育や躾もあるが、多くの人が思い浮かべるのは学校教育だろう。ところが、大学から大学院にまで行ったところで、日常生活で、あるいは仕事で必要とするすべての知識を得られるわけではない。

まさかここで、「えっ」なんて反応はないと思うが、念のために簡単な例を挙げておく。CRISPR-Cas9やAIなど、つい十年ほど前には、関係する先端科学か技術開発に従事していた人たちぐらいしか知らなかっただろう。その人たちとは違うところで生活をしてきた人たちにしてみれば、ある日突然、新しい言葉として湧いてでてきたようなものでしかない。
昔受けた教育までで止まってしまって、新しくでてきた物事についていけなくなった時の首相がInformation Technologyの略語ITを「イット」と呼んだのはそう昔の話じゃない。いくらもしないうちにAIを「愛」と勘違いする人もでてくるかもしれない。

社会生活をおくるなかで、常に必要とする知識を吸収しながら、そして吸収した知識を今まで構築してきた知識体系に組み込んで新しい知識体系を構築しなおす作業を意識することなく繰り返している。今までの知識がどれほどのものであったにしても、つねにつけ刃を求めるかのように新しい知識を吸収していかなければならない。その作業、学校教育のように体系立てて、カリキュラムよろしく、はいどうぞと用意されているものではない。個人の興味から一歩もでないものがあるにしても、一端の社会人であろうとすれば、知らないことを知るために、それなりの努力が欠かせない。

ここで、体系だった用意された学校教育に適応しすぎた意識の欠陥があらぬ邪魔をすることがある。用意されたものと用意された取り組みかたで、上手に処理することを学びすぎたことが障害になる。社会にでて遭遇する課題にはこれといった答えがないこともあるし、決まったやり方があるわけでもない。まして実用化されてから日が浅く、日々急速に進歩していく技術や領域では、これが唯一正しいやり方だ、答えだと教えてもらえるものではない。しばし、当面はこれでやっていくしかないだろうと時間稼ぎをしながら、次に打つ手を模索するしかないことも多い。その模索、周囲からのアドバイスがあったにしても、最後は自分で考えて、新しい知識を求めて、今までとは違ったやり方を生み出してという、試行錯誤の繰り返しになる。

知っていることは、常に過去の状況に基づいたもので、極端にいえば過去の知識でしかない。体系化した学校教育はその典型だろう。コンピュータが登場する前に社会にでて、仕事でコンピュータを勉強しなければならなくなったことを想像してみたらいい。大きな会社であれば、企業内にそれなりの研修体制もあるだろうが、そんな恵まれた人たちばかりではない。独習を通して、何をどう調べれば、どんなところのことまでなら知りうるという、人間の能力ももっとも大事な能力を培うことになる。

インターネットが普及して、新しい知識の吸収作業に大きな革命をもたらした。百年前ならそれこそ洋行帰りの先生し師事して何年もの時間をかけて一握りの、当時としてはそれだけでエリートになりえたであろう知識がスマホ一つあれば事足りる時代になった。そこで必要とされるのはインターネットで情報を上手に漁る能力で、それはもうテクニックと呼んでもいいかもしれない、使い慣れとその使い慣れを生み出す知恵ともいえる能力だろう。

情報が氾濫する社会で上手に必要とする情報を拾い出す能力、残念ながら日本の学校教育ではほとんど無視されてきた。学生が生徒がインターネットであれこれ調べるのを、自分たちが重宝してきた「あんちょこ」と同じか似たようなものと勘違いしている先生がいる。情報を集めるのが研究の主たる作業であった時代に定型化された教育を受け、そこから得た知識をあたかも昔取った杵柄のようにして生きてきた人たちには申し訳ないが、インターネットで情報を漁ることに関しては、若い人たちのほうがはるかに優れているだろう。

それを認めて、教育の一環としてスマホやコンピュータを使った情報集めのトレーニングのような授業というと重苦しくなるから、セッションでも開いたらどうか? 本来教える側にいる先生が、学生や生徒から教えらえることが山ほどあるような気がする。そこで先生と呼ばれて、へいへいと学生や生徒から教えてもらうことを厭わない先生、本物だと思うのだが、どうだろう。
2010/4/12