知までの本と考えさせられる本(改版1)

知はそとに求められるが、知識は知をもとにうちでつくられる。だから知的好奇心とはいっても、知識好奇心とはいわない。

二ヵ月以上閉鎖されていた図書館がやっと開いた。読まなければと思っていた本を三冊借りてきた。一冊目は川端康成の『古都』。毎日ミラーツインを見ていることもあって、文豪がどのように視点から一卵性双生児をとらえて、名作に仕上げているのか気になっていた。数ある作品のなかからノーベル賞受賞の際にも挙げられた『古都』だが、一卵性双生児の精神面を描ききれているようには思えない。親しい間柄の一卵性双生児が近くにいなかったのだろう。数ある文学作品の一つとして、楽しく読ませていただいたが、うちのミラーツインの日常と重ね合わせるところはなかった。がっかりはしたが、思わぬことで後を引くこともない。よかったといえばよかった。

二冊目は、これも随分前から気にしていた本で、池田晶子の『睥睨するヘーゲル』。そして三冊目は半藤一利の『昭和史』。『昭和史』は、知り合いから進められた本が豊島区の図書館になかったことから、勘違いして借りてしまった。

ゆっくり読んでも二日もかからない文学作品の後だからか、『睥睨するヘーゲル』は重かった。知ることを目的として読む本はいくらもあるし、読んで知ったことが既に知っていたことと、時には対立して衝突することもある。そこから枝葉を切り落として残したものが何らのかたちで既知と反応して融合して、多少なりとも使いものになる知識を織りなす部品として残ってゆく。ところが池田さんの本では、知あるいは情報を提供することで読者がときには考えだすというステップを飛び越えて、いきなり考えるそのものがでてくる。

昔の知り合いから、ときには偶然出会った人から、「仕事はしてないし、これといった趣味もないのに……、毎日、いったい何してんの」と聞かれることがある。
正直に答えていいものやらと気にしながら答えると、きまって宇宙人でも見たような顔をされる。
「毎日考えてるんだけど。まあ、本を読んだりWebで色々漁ってる時間も多いけど……」
「でも、それも考えるためにしてるんで、何してんのって聞かれれば、考えてるとしかいいようないんだけど……。そのために仕事辞めたんだから」
言ってしまってから、言わなきゃよかったと、必ず思う。

哲学者でもなければ、何かの研究者でもない。ましてや思想家や宗教家なんて、よしてくれという気持ちの方が強い。ただの巷のオヤジが「考えてる」。そりゃ普通の人からすれば、オカシイ、ちょっときてるんじゃないかと思われてもしかたないと思う。そこまでの自覚はある。ただ何してんのかと自分自身に問えば、答えはやっぱり考えているとしか言いようがない。考えて、自分を説得できるか、納得できるかを繰り返している。そこに、あえて付け加えるとすれば、考えたことを整理するために書き残しているぐらいでしかない。

比較の対象にするなどと恐れ多いが、池田さんの次の言葉に、ぼんやり思っていたことを見つけてほっとした。ほっとしたのはいいが、何かに気づくと必ず今まで以上に重くなる。そのうち重すぎて潰れてしまうのではないかと怖い。毎日そりゃないだろうというニュースばかりを目にしているせいか、軽すぎやしないかとためらいながら手をだすぐらいの本のほうがいいんじゃないかと思いだす。そんなところで池田さんの本を続けて読むか? 逃げるわけじゃないけど、重いのはたまにだからいいので、しょっちゅうはつらい。と思っているのに、どうにも気になってまた手を出してしまう。

『睥睨するヘーゲル』からちょっと引用しておく。
「私はたんに考えているのであって、『哲学』を考えているのではない」
「たんに考える、何もないところで考えるということが、どのような経験であるのかわからない。それは、かつて考えた経験がないからであるというそれだけのことである。しかし、それも考えるという経験のない人が、それ以前に本を読んだり学んだりで、他人の考えを取って付けて、それで考えたことになるわけがない。それが何より証拠には『読んでもすぐに忘れてしまう』『自分の言葉で言い換えられない』『読むには読んだ、つまりそれだけ』」

池田さんが言うように、これ以上何があるとも、これ以下に何があるとも思えない。それはただ気になってしょうがないから、考えているということでしかないじゃいかって。でも誤解されると困るから、はっきりしておきたい。べつに哲学を勉強しようとしているわけじゃないし、ましてや哲学学者や哲学研究家をはるか上に仰ぎながらやっていることでもない。納得しいただけで、何を求めてのことでもない。自分の内からのもので、誰彼の影響でもない。

知って、考えて、知ったことがあれこれ絡み合いながら考える基礎となる核のような知識に昇華していく。その昇華した核どうしが反発したり引きあったりして、知識の集合体を形成していく。その集合体から知や情報の不足がぼんやりとにしてもみえてくる。そこから知らなかった世界の情報を漁りに出かけてゆく。たまに疲れて漂うようなことがあっても、その繰り返しがいつまでも続く。

考えることをご自身の考える日常から書き残された『睥睨するヘーゲル』を読んだ後に『昭和史』を読んだこともあってだろう、そこには歴史上の情報があった。それだけというと言いすぎに聞こえるかもしれないが、あったのは知識を醸成するための素材や情報の断片を整理して並べたものとしか思えなかった。
きつい香辛料を食べ続けた後のような感じで、しっかりした味があるはずなのにと思いながら読み流していった。

愉しませてくれた『古都』、情報漁りには役立った『昭和史』、考えることをあらためて考えされられた『睥睨するヘーゲル』、どれも捨てがたいが、どうしても最後が一番気になる。それにしても重い。
2020/9/13