はじめにあったのは音だった(改版1)

音を聞く聴覚は生得のもの。話し言葉は社会生活の賜物。書き言葉(文字)は教育あってもの。

二ヵ月に渡って図書館が閉鎖されて、読む本がなくなってしまった。しょうがないからWebで海外のニュースを漁っていた。当初は、New York TimesやGuardianといった一般紙だったのが、苦しまぎれにあれこれのニュースサイトに広がっていった。どこか一誌、例えば、EconomistやNew Yorkerのような週刊誌でもきついが、New York TimesやWashington Postなどの日刊紙を購読しようものなら、毎日届くニュースの山に埋もれて、他を見る余裕がなくなってしまう。購読料もバカにならしい、どこか一つで精一杯というのも癪にさわる。
四十代半ばから五十代の後半までEconomistを年間購読していた。仕事で忙しくて、つい溜まってしまう。読まずに捨てるのももったいない。しばし、マラソンのように読み続けて土日がつぶれた。

記事は読みたいが、無料で読める本数が限られている。どうしたものかと考えて、この手があったかと思いついた。ニュースレターの特徴的な数行をコピーしてGoogle Chromeで検索すれば、運が悪くなければ、ニュースの配信元やローカル紙に転載された記事が見つかる。テレビ局のニュースサイトのこともあれば、特定のジャンルに特化したニュースサイトに出会うこともある。なかには信憑性や編集者の偏向が気になるサイトもある。教義の視点で書かれた記事や右翼のプロパガンダに関わっている暇はない。記事を読みはじめて、どうなんだろうこのサイト?と思ったら、「Media Bias/Fact Check」でチェックすることにしている。今まで読んだ記事の内容と評価から、「Media Bias/Fact Check」には信頼をおいている。urlは下記の通り。

https://mediabiasfactcheck.com/

一日中朝から晩まで、どこかからニュースが入ってくる。香港やシンガポールまでならたいした時差でもないが、カタールからヨーロッパにアフリカ、そしてアメリカの東海岸から西海岸からとなると、夜九時すぎから早朝にかけてが多い。どれもこれもが社会問題を正面から取り上げた記事で、思わず涙することもある。
次から次へと読んで、もう終わりにしなきゃと思いながらも、メールボックスに気になるニュースレターが並んでいると、中断するのが難しい。朝起きて読めばいいじゃないかという気もするが、どうにも気になってしょうがない。もう夜更かしというより、昼と夜がひっくり返った生活になってしまった。

英語は仕事で必要に迫られて使ってきただけの道具でしかない。面倒なだけで、使わないですめば使いたくない。分からない単語を辞書で引き引き、日本語のニュースがつまらないからにしても、馬鹿じゃないかと思う。ましてや英語を通して事情通? 冗談じゃない。あっちの話とこっちの話を適当につないでまるめるだけの、上っ面のジャーナリストのような世界に興味はない。ただ世の中、世界がどうなっているのか気になる。拙い知識ではどうにも説明がつかないことばかりで、どこかに理解のきっかけとなるヒントでもないかとニュースや情報を漁り続けている。

早朝までこんなことをしていると疲れる。なにかストレスを減らす方法はないかと考えていて、 六月末に気がついた。英語の読み上げソフトを使えばどうだろう? 耳で聞くのを主として、目で追うのを従とすれば、少なくとも目の負担は軽減できる。

そんなありきたりのソフトウェア、買うまでもない。読み上げるという基本機能さえあればいいのだからと、フリーウェアを探した。フリーウェアのなかには、ウィルスを忍ばせているのもある。これはと思うのは、どこまで参考になるか怪しいが、巷の評価を見ていった。まあ、これなら使えそうだというのを二本ダウンロードして使ってみた。コンピュータによる合成音声で、フラットな抑揚で一定速度で読み上げてくる。生のインタビューなんかよりよっぽど聞きやすい。

文字を読む能動的な作業から聞きながら見る受動的な作業になったおかげで、ストレスというストレスを感じなくなった。目が疲れたらつぶって聞いていればいい。読み上げ速度を二倍すれば、読むようにはならないが時間も短縮できる。こんなうまい手があったのか、もっと前から知っていればと思った。

使い始めて、思わぬことに気がついた。言葉はもとは音でしかないんじゃないか? 文字を発明するずーっと前から耳で聞いて、口から発する「音」だった。雷の轟音、せせらぎの音、暴風の音は聴覚で受けるもので、言葉はいらない。
言葉は、ヒトから人に進化する過程で社会的に生み出された。原初的な言葉が社会の発展ともに体系だった言語になっていく。そしてその言葉を使う生活をおくるなかで社会を構成する人々が共有して一つの文化をはぐくんでいった。音としての言葉は、文字のように人工的に作られ、なんからの体系だった教育をうけなければ身につかないものではない。聴覚は生得のもの、言葉は社会生活のなかで身につくもの、そして文字は体系だった教育によって会得するものだろう。
文字見て文脈を理解して、文章の言っていることを理解するには、教育されて身に着いたものでしないことからくるストレスが伴う。

「はじめに言葉ありき」、聖書に書かれているらしいが、聖書が人々の精神生活の指針だったのは、ほとんどの人が文盲だった時代ことで、そこでいう「言葉」には二通りの意味がある。一つ目は、聖書を手にとって読める、読むことを許される人たち――その多くが教会の関係者で、教義に基づいて自分たちの都合のいいように聖書に書かれていることを解釈する。そして、その人たちの解釈に基づいて、聖書を読めない、読むことを許されない人たちに話し言葉として伝えられる話がある。教会関係者以外の人たち――当時の圧倒的多数の人たちにとって「はじめに言葉ありき」とは文字による情報ではなく、教会関係者の都合で語られる「音として」言葉、あるいは自分たちの日常生活で話し、そして聞く言葉だった。

初等教育の普及で、文盲も随分減ったが、文字で伝えられる情報より、日常の社会生活で使われる「音として」言葉の方が人にとっては精神的負担が少ない。ヒトが社会を形成しだしたときから数百万年、話し言葉は生理的なレベルのものになっている。一方書き言葉は初等教育を経てはじめて得る能力で、生理的な処理では扱いきれない。当然受けるストレスにも違いある。

書き言葉(文字)の前に話し言葉がある。どちらにも、時には曖昧にしてもそれぞれの言葉には意味がある。意味が分からなければ、言葉はただの音になる。聴覚をもつ生き物は、たとえそれが経験や社会生活を通して培われたものだとしても、生理的に音から有意な情報を得ている。英語の歌やフランス語の歌どころか、日本の民謡を聞いても意味が分からないことが多い。
意味のある音としての言葉の前に音そのものがあった。はじめにあったのは音だった。
もっとも、お経を聞いてもちっともありがたみがない。仏教経典、サンスクリット語らしいが、お経をあげているお坊さん、サンスクリット語にも長けているのか。不信心の故か眠気を誘う音にしか聞こえない。

p.s.
<doomscrolling>
インターネットが普及しだしたころ、こっちのサイトからあっちのサイトへと見て回るのをネットサーフィンと呼んでいた。コロナウィルス騒ぎで、多くの人が自宅に軟禁されたかのようになってしまった。自宅から最新の情報を探して、サイトからサイトへと見て回る人たちが増えたらしい。
そこで死語になった感のあるネットサーフィンに代わって、新しい言葉「doomscrolling」が生まれた。ネットサーフィンにはインターネットがもたらした明るいイメージあったが、コロナウィルス禍がもたらした「doomscrolling」、マイナス情報を漁ることから「doom」。早く次の明るい言葉が出てきてほしい。
2020/9/20