今日は降らない(改版1)

もう二十年、あるいはもっと前からかもしれないが、天気予報の精度がずいぶん上がってきたように感じだした。それまでは、予報というよりただの予測じゃないかと軽くみていた。もうかつてのように当たるかもしれないし、当たらないかもしれない予測ではなく、外れる可能性の少ない予報になった。昔とはちがって今は、天気予報をそのまま信じるというのか受け止めるようになった。

かつては、外れるかもしれないと思っていた天気予報を気もちの上の遊びの賭けの対象にしていた。テレビや朝刊で午後から小雨といわれても、どこかに本当かよという気持ちがあった。玄関から一歩でて空を見て、時間にしてみれば一秒二秒、どうだろうと考えた。このぶんなら、そこまでくずれることもないんじゃないか? 傘を持ってでるか、それとも今日は降らないに賭けるか? もう一度空を見上げて、一瞬ちゅうちょはしても、しばし「今日は降らない」方に賭けていた。

賭けたところで、なんの根拠があるわけでもないし、自信などあろうはずもない。表に出て歩き始めたとたん、傘を持ってこなかったことに、ちょっとした不安とそれを押し返そうとする外れ者の気持ちがいり混じる。駅に近づくにつれて多くなっていく人のなかから傘を持っていない人をみつけては、オレひとりじゃないじゃないかってほっとする。ほっとする自分に気概の欠片もない、ただの外れものちゃちな自分をみつけてイヤになる。
折りたたみの人もいるだろうから、ほとんどというより、持ってない人はついうっかり持ってくるのを忘れたかぼんやりさんか、自分と同じように会社に置き傘がある人たちじゃないかと考えだす。誰も出勤でいそいでいるから、他人のことなんかかまっちゃいないと思っても、傘を持っている人たちの目が、傘ももってないのかといっているようで気になる。今日は負けたか?と不安がよぎるが、今さら取って返す時間もないし、めんどくさい。こんな些細なことでと思いながら、自分でいなきゃと気を張る。

雨も降らないのに持っている傘は、どこかに置き忘れてくる可能性がたかい。用心にこしたことはないという思いもあるが、度がすぎると、と勝手に思っているだけなのだろうが、気持ちが縮こまってしまう。いくら慎重に備えたところで起きるときは起きるし、備えていたことが役立つことばかりが起きてくれるわけでもない。予期しなかったことが起きた時に、その場その場でどう対処できるかが、その人の素の能力だと信じている。なにがあってもどうにでもしてやるわぐらいの気持ちがあって、はじめて意味のある人生をおくれるんじゃないかと、うがった見方で傘を持っている人たちをみていた。

やっぱり降らなかったじゃないかと意気揚々と家路につくのだが、朝見た時より傘を持っている人たちが、ご苦労さん人種にみえてくる。せいぜいどこかに忘れないように、細心の注意を怠らないようにと減らず口を気持ちのなかでたたく。

賭けにまけたところで会社には置き傘がある。勝手な予想がはずれたところで痛くもかゆくもない。ところが客先や代理店にでかけた先で雨にあうと、持ってくればよかったとみじめな気持ちになるが、よっぽど辺鄙なところでもなければ、傘ぐらい何処かに売っている。使い捨ての傘でもいいが、できればちゃんとした傘を買うようにしていた。
そんなことをしていたら、傘がたまってしょうがないんじゃないかと心配されるむきもあるだろうが、心配無用。生来のおっちょこちょいで、時には一二度使っただけの傘をどこかに忘れてきて口惜しい思いをしてきた。忘れるから、降ってない時には持って出ないようにしていていた。

降らないと賭けるのも、遊び半分の生活の知恵。仕事にしたって、いつ何が起きるかわからない。左遷もあれば、事業が売却されてなんてことも起きる。そりゃないだろうという目に何度もあってきて、よほどのことでもなければ、驚きゃしない。最後は一人、自分の能力だけで生きていくしかない。なにからなにまで用意周到なんてできるわけでもなし、できることは使い回しの利く能力をどこまで培えるかだけだろう。あとはその都度都度の自分の判断と良くも悪くも運次第。運次第の勘を今日の天気で占って、遊び半分で多少は磨けないかと思っていた。
2021/1/15