日常生活の場にまで(改版1)

丸ビルにある子会社に左遷したのに、我孫子(工場)にもどってきては組合運動やなんやかやで煩いからと日本を所払いになった。病気で急遽帰国せざるを得なくなった八十年までの三年間、ニューヨークからミネソタやネブラスカ辺りまでサービスマンとして駆けずりまわっていた。
月曜は事務所に出て前の週の報告と旅費精算を済ませて、火曜から金曜までの出張の準備をしていた。カーナビや携帯電話など考えられもしなかった時代で、地図と住所を頼りに客に着くまでが一仕事になってしまうことも多かった。そんなある日、日本の客だから英語が不自由な新米でもなんとかなると思ったのだろう、ランカスターの日清食品に行って旋盤を据え付けてこいと言われた。

ペンシルベニア州のランカスターまでは高速で三時間ちょっと、たいした距離じゃない。さっさと走ってランカスターには着いたが、その先が分からない。事務所で聞いたMasako’s Placeという住所を頼りに、この辺りかあの辺りかと走ってみたが、Masako’s Placeが見つからない。ガソリンスタンドを見つけては、Nisshin FoodsやMasako’s Placeを知らないかと訊いたが、誰もそんなもの聞いたこともないという。近くまできているはずと思いながらも、走れば走るほど、とんでもない所を走り回っているのかもしれないと疑心暗鬼になっていった。あちこち走っているうちに迷子になって、自分がどこにいるのかわからない。道路標識を見つけては止まって地図で現在地を探した。もしかしたらこっちの方かもしれないと走っては、また地図を見てをくりかえした。

細い道に入り込んで、こんなところを走っていてもと思っていたら、向こうの方に雑なつくりの細長い納屋のようなものが見えた。何なんだろうと走って行ったら、日曜大工でももうちょっとましなものをと思うほど、ありあわせの材木をうちつけて作った橋だった。車から降りて、ちょっと中に入ってみたが、屋根がかかっているせいで、うすっ暗くてよく見えない。作りはあらっぽいが、ごつい材木を組み合わせていて、頑丈そうに見える。車で入っても落ちる心配はなさそうだ。これも経験と渡ってみたが、床も不揃いなありあわせの材木を並べただけで、でこぼこがひどい。車だからいいようなものの、自転車では降りて押してゆくしかない。
その屋根のかかった橋、後日知り合いからCovered Bridgeだと教えられた。馬が川の水を見て怖れることのないようにということから、考え出されたものらしい。
渡ってみるまで、さして気にも留めなかったが、ちょっと走ってみれば、あっちにもこっちにもある。綺麗にペンキを塗ったものもあるが、雑なつくりに変わりはない。どれも不揃いな大きな材木を使いたいようにつかっただけのものだった。

Masako’s Placeが見つからないまま、走っていったら、ポンと目の前に建ったばかりというよりまだ工事中かもしれない、ほとんど窓のない大きな灰色の箱のような建物がでてきた。周りは整備されてないし、道路標識もない。もしやと思って聞いたら、Nisshin Foodsだった。やっとたどり着いたら、まだ電源工事も終わってないし、旋盤はクレートのまま工場の裏に置いてあった。電源もないところでは仕事にはならない。

三時間も走ればニューヨークに戻れる。まだ昼ちょっと過ぎ、時間はいくらでもある。ここまできたのだから、Covered bridgeをもう少し見ておこうと何もないところを走って行って、橋を見つけては渡ってみた。そろそろどこかで昼飯でもと思いながら走って行ったが、どこへいっても畑と雑木林ばかりで、ガソリンスタンドもでてこない。

田舎道をとろとろ走っていたら、一頭立ての黒一色のバギー(軽装馬車)がのんびりと前を走っていた。追い越そうと思えば追い越せるが、これもいい経験と後ろにゆったり付いていった。いくらもしないうちに、同じつくりの馬車が向かい側からも走ってきた。ゆったりもいいけど、朝飯も食べてないし、どこかでなにか食べなきゃと四辻で右折してバギーから離れた。いくらもしないうちにまた前にバギーがでてきた。まさかバギーが日常の移動手段? 最初はよっぽどのマニアかなんかだと思ったが、三台もとなると話しが違う。まるで西部開拓時代にタイムスリップでもしたかのようだった。

十年後の八十八年、クリーブランドの事業部でCNC(Computerized Numerical Controller)の開発作業をしていた。結婚して二年しか経ってない女房を日本に置いたままにはできない。自費で女房をつれて会社が用意してくれたアパートで暮らしていた。同僚の話では、クリーブランドは、かつては自動車関連の製造業で栄えた街だったそうだが、もう寂れた小さな地方都市になり果てていた。アウトドアに興味のないものには、退屈でどうしようもない田舎町だった。
ダウンタウンにチャイナタウンがあると聞いて行ってみたら、往時を忍ばせる広い通りにそってポツンポツンといくつかの店があるだけだった。地場の何を食べても不味そうなダイナーが二軒と二、三軒の中華屋に中華食材店が一軒、その先にはどういうわけか日本食材店が一軒と隣に貸しビデオ屋が一軒、ずい分離れたところに韓国焼き肉屋が一軒あるだけだった。
なんでこんな田舎町に日本食材店がと思っていたが、後年日本飯屋のオヤジさんが、その訳を教えてくれた。何度か通っていたら、ある日、遠慮がちに訊かれた。
「クリーブランド・クリニックの先生ですか?」
なにを聞かれているのがわかるまで、ちょっと時間がかかった。なんでオレが先生?と訊いたら、
「ダウンタウンの方にクリーブランド・クリニックという全米屈指の大病院があって、そこに日本の大学の医学部から研修に先生、とくに九大が多いらしいですけど……。うちにもよくいらっしゃってるから、てっきり先生だとばかり思って……」

クリーブランド・クリニックはいいけど、そんなものにお世話になることもないし、この田舎町はなんとかならないものかと飽き飽きしていた。ふと日本支社のアメリカ人社長が達者な日本語で言っていたジョークを思い出した。プロジェクトでトラブったときの表彰で、三等賞はクリーブランドに一週間、二等賞は二週間、一番問題の多かった人は一等賞でクリーブランドに三週間抑留。
言われた時はピンとこなかったが、住んでみて実感した。三週間でもうんざりするところに一年以上。仕事しかやることがない。まるで島流しされたみたいだった。

事務所でアメリカ人にランカスターでみたCovered bridgeとバギーの話をしたら、アメリカ人の常識なのだろう、いろいろ教えてくれた。
「アーミッシュの中には世俗化してきたものいて、最近じゃ、腕時計しているものいるらしい」
「あのバギーで高速道路に入ってくるのまでいて、大騒ぎになったこともある」
「まあ、それでも電気もなければ、テレビも電話もないし、自動車なんてとんでもないって」
「ランカスターのあたりにはかなりのアーミッシュがいるけど、ネブラスカにもいるし、オハイオにも結構いるぞ」
「ここから真っすぐ南に一時間も走れば、ベルリンという町につく。そこはあのあたりのアーミッシュの中心の町だから、暇だったら行ってみれば」

いいことを聞いた。ナイアガラとマンハッタンには女房を連れて行ったが、一度アーミッシュをみせてやろうと出かけて行った。
狭い道をバギーの後ろについて走って行ったら、そのままベルリンの町の中心街にはいってしまった。中心街といっても小さな建物がいくつかあるだけで、西部劇の映画のセットのようだった。食品や雑貨になんでもおいてありそうな小さな店の前には馬の手綱を巻いておく、鉄棒のような格好をした棒が立っていた。周りをざっと見わたしてみたが、バギーだけで、どこにも車がない。
アーミッシュの人たちの目が気になる。どうみても、アーミッシュの人たちの日常生活に入り込んできた迷惑な東洋系としか見えないだろう。どこかから石でも飛んできそうな気がする。

路の隅に車を止めて店に歩いて行ったら、周りにいたアーミッシュの人たちからジロジロみられた。大人や年寄りはさすがに正面から見ようとしないが、子どもはあからさまに見ながら何か言っていた。アジア系を見るのははじめてなのかもしれない。じっと冷たい視線で観察された。

店には天然物とでもいうのか、不揃いな野菜や手造りの道具が並んでいた。工場で大量生産されたものはみあたらない。みんな近くに住んでいる人たちがつくって持ち寄ったものなのだろう。記念になにかと思ったが、買って帰っても邪魔になるだけで、日本人の実用には向かない。せっかくだから何かないと探してはみたが何もない。やっと十センチ四方ほどに切り取ったハチの巣を見つけた。
そこは人々の生活の場で観光地じゃない。申し訳ないことをしたと反省しきりだった。

町を出たところでみつけたアーミッシュの看板を掲げたダイナーでパンケーキとコーヒーで一息ついた。内装もパンケーキもどこでもあるもので、ウェイトレスの服装以外にアーミッシュを感じさせるものはなかった。同僚にダイナーの話しをしたら、それは観光ダイナーでアーミッシュじゃないと笑われた。

この原稿を書きながら、Googlemapでベルリンをみたら、ずい分開けた町になっていた。バギーにならんで車も見える。ベルリンに行ったのは三十年以上も前の話しで、アーミッシュの人たちの生活も随分変わってきたのかもしれない。と思いながらも、変わったように見えるのはおおかた観光用じゃないかと思っている。

好奇心の強い人にはちょっとしたジレンマがある。観光地は経済的利益を目的として、見せたいものを見せたいように見せているだけで本物じゃない。ハワイの観光客用のショーなんかその典型だろう。そんなものいくら見たって、見せられたって、好奇心はみたされない。もっと知りたいと思えば、その地の人々の日常生活に踏み込まないまでもかなりのところまで迫らざるを得ない。
二十歳をちょっとすぎたころ、高専の同級生と二人で出雲から萩にぬけて津和野を回ってきたことがある。萩で観光地図を手に「おい、こっちじゃないか」「えっ、どっちだ」なんて言いながら、明治の偉勲の生家をめぐっていた。どれも歴史的遺産だが、中には現役の住居で人が住んでいつところもあった。それを知らずに入ってしまった。知らなかったとはいえ、失礼なことをしてしまったと反省している。

インターネットで簡単に情報が手に入ることもあってだろうが、最近なんでこんなところにまでというところに外国人観光客が入ってきて、驚くことがある。それが一人や二人ならまだしも、集団で大きな声で話しながらだからたまらない。もともとあけっぴろげな東京の下町だったところじゃ、それこそ昼寝もおちおちしてられないという苦言が聞こえてきそうな気がする。
2021/6/3