ジョン万次郎の墓を見て(改版1)

引っ越してきたとき、周りに何があるのかとGoogle Mapをみていて気がついた。すぐそこに雑司ヶ谷霊園がある。田無で育ったこともあって、墓地といえば多磨霊園で、雑司ヶ谷霊園なんか聞いたこともなかった。でも雑司ヶ谷霊園、なにかで読んだ記憶がある。どこでそんな記憶がと思いながら、Webでみていって驚いた。歴史上的著名人の墓がいくつもある。不勉強で誰この人というもあるが、夏目漱石とジョン万次郎の墓は、一度は見ておかなければという俗な気持ちが湧いてきた。

雑司ヶ谷霊園については、下記参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E5%8F%B8%E3%83%B6%E8%B0%B7%E9%9C%8A%E5%9C%92

五分も歩けばというところにあると、いつでも行けるという気持ちがわざわいして、なかなかさあ行くかにはならない。
ある散歩日和の午後、えいと思い切ってでかけた。管理事務所でもらった案内書の地図と立て看板の地図を見比べて、夏目漱石の墓の位置を確認して歩いていった。公営墓地だからだろう、碁盤の目のような区割りが細かい。高野山で見た化け物のような墓石はない。それでも夏目漱石の墓は、周囲とくらべてのことにしても大きく、一目でそれとわかるものだった。官僚や政治家ではない文豪の泰然をしたものをと思ってのことだろうが、どこかつくりものように感じた。真正面に立ってはみたものの、教養もなければあって当たり前の知識もないからだろう、これといった感動もない。そんな自分にちょっとがっかりしたが、それでも、まあ、これがあの夏目漱石の墓だという気持ちにはなった。

地図を片手に、あちこちに点在している著名人の墓をみながら、管理室からもっとも遠いところにあるジョン万次郎の墓に辿りついた。そこには通りぬけてきた墓所とは一線を画した世界があった。並んでいた墓石は絵に描いたようなとでもいったらいいのか、どれも似たようなもので、これといった個性を感じさせるものはなかった。ところが万次郎の墓はみてきたものを否定するかのように立っていた。石器の矢じりを思わせる、見上げる大きさの自然石の墓石だった。

鶴見俊輔が書き残した評伝には、ジョン万次郎は非常にプラクティカルなというのか、合理的でなおかつ人としてのありように忠実に生きた人として描かれている。それがジョン万次郎ついて知っているすべてで、何を知っているわけでもない。評伝に書かれていた印象が強かったこともあって、あの万次郎がこの墓石を望んだのかと考え込んだ。いくら考えたところで答えなんかでてきやしない。あるのはないに等しい知識とそこから生まれて来るこっちの勝手な思いだけでしかない。その勝手な思いの一端は、オヤジ(養父)の葬式の経験から生まれたものだった。

オヤジが死んだとき、お袋が遺言だからと、そっと一枚だしてきた。あのオヤジがいったい何をと思ってみてみれば、オヤジらしいというのか、らしくないまっさらな気持ちが達筆な字で丁寧に書いてあった。本来オヤジの連れ子である義兄がみるもので、お袋の連れ子であるオレがどうのこうと口をはさむことではない。

ニューヨークに駐在していたとき、実家に手紙を送ったことが二度ある。まだまだ海外が遠い時代だったから、心配しているだろうと思って無事着いたことを連絡した。それから三ヵ月ほど経って生活もやっと落ち着いてきたとき、当初の緊張感もやわらいで、たわいのないものを送った。七十年代の中頃、国際電話なんか高くて、とてもじゃないがかけられない。さりとて手紙となると面倒だし、現場仕事であれた字は見るのもいやだった。最初の一通にオヤジから返信がきた。元気にしてるかというような他愛のないことが書いてあったが、手紙の目的は字は丁寧にというものだった。あまりにだらしのない手紙に呆れかえってのことだろう。

あの三遊亭のオヤジが死を前にしてこんなことを気にしてたのかと、何となくほっとした記憶がある。何行かあったが、全てではないにしてもほとんど覚えている。最初に、市民葬にしろと書いてあった。オヤジは町医者として患者さんの死を見続けてきた。合理性を大事にする人だったが、そこは大正生まれ、葬式から帰ってきたとき、お袋に塩をふって清めてもらってから玄関にはいってきた。患者さんには経済的に恵まれない人も多く、葬式の相談まであったのだろう。費用をかけずにということで、オヤジが議員連中に掛け合って、市の建物を斎場として使って、知り合いの坊主に労を取ってもらうことにして市民葬をつくった。
残されるお袋の生活が気になったのだろう、葬式に金をかけるなということから市民葬にしろと、それもオレが作ったものだからという気持ちもあったと思う。多少金をかけてもでも、組織のあるところに任せれば楽なのに、家族全員で忙しく走り回ることになった。

葬式には人を呼ぶな。香典は受けとるな。坊主は呼ぶな。戒名なんかいらない。霊柩車は宮型は御免だ、簡素な洋式にしろ。とまあならんでいたが、意に沿えたのは市民葬と霊柩車だけだった。呼ぶなと言っても市役所(旧)の隣で開業していただけに、患者さんの中には町の商店会の人たちも多かった。市役所の職員もいれば議員もいるし日雇いの人もいる。背中いっぱいに入れ墨のはいったヤクザもいたし、かなりの右からかなりの左まで、よくもまあこんなにと思うほど遊び仲間がいた。坊主も一人じゃない。何人もの生臭坊主とはかなりの飲み仲間だった。呼ぶなと言われても、呼ばなくてもあっちから押しかけて来るだろうくらいのことは分かってんだろう、オヤジと言いたかった。
お袋を挟むように右と左に義兄と並んで正座して、来る人来る人に頭を下げて、足をしびれをなんとかしようと尻をあげていた。なんでこんなに大勢くるんだ。オヤジは呼ぶなといってたじゃないかと言っても来るものはしょうがない。

「お前、墓参りなんかに来ることないだろうけど、来なくていいからな。死んじまえばなにも判らないんだから、時間の無駄だ。ちゃんと永代契約の公園墓地を買ってあるから心配するな」とは言われていたが、お袋の納骨にはいかなきゃならなかったし、まあ、ハイキングがてらに秩父まで女房と何回かいったことがある。

一度はみせておいたほうがと思ったのだろう、三十をまわったころ藤澤家の墓と武井家の墓に連れていかれたことがある。どっちの家の墓も、江戸時代から何代も続いていたのだろう、ほとんどの墓石は風化して文字が読めなかった。驚いたことに青山のお山とでもいうのか高台の、どっちが表でどっちが裏だかわからないが、あっちとこっちに藤澤家の墓と武井家の墓があった。まるで高台が武士と町人を分けているようだった。

家とか血縁を嫌っていたオヤジが用意した墓石には「藤澤」とだけ刻み込まれていた。鶴見俊輔が描いたジョン万次郎と雑司ヶ谷の墓石、他人の勝手な感想をいわせていただければ、どうにもしっくりこない。
故人の思いでどうにかなるのはどこまでなのか。死後思いどおりになることのほうが稀じゃないかと思っている。まして葬式は残された人たちがすることだから。
2021/6/12