ついに朝日新聞も止めた(改版1)

海外に駐在にでていて中断したこともあったが、結婚してからは引っ越しても、すぐ最寄り販売店にお願いして購読を継続していた。かれこれ三十五年、他紙には目もくれない固い購読者だった。購者としては固かったが、読者としてはせいぜい読み流しだった。読み流しというと、一方的にこっちの姿勢に問題があるように聞こえるが、それは身を入れてまでして読む記事がほとんどなかったから必然としてそうなったことで、責は紙面にあると信じている。

どの記事も、プレスリリースされたものをちょいとまとめただけのようにみえた。あったしてもせいぜい取材というのか聞き込みまでで、何を調査したとも思えないし、集めた情報を分析して裏もとって全体像を鳥瞰した記事など目にした記憶がない。形通りの上っ面、踏み込みもなければ、背景や経緯には触れていない。読み始めるとがっかりして、だんだんイライラもしてくる。読み終わった時には、これが日本を代表する新聞なのかと情けなくなる。そんなものを三十五年間もよく続けてものだと、緩い自分に呆れてしまう。随分まえに我慢の限界も超えていたし愛想も尽きていた。
三十五年も続いた原因はオヤジがなにかのときに口にした一言にある。どこかで聞いたか読んだだけなのだろうが、「新聞は朝日、雑誌は世界だ」が家訓のように残っていた。そんな一言も半世紀も前のことで、当時としてならいざしらず、今となっては埃をかぶった歴史になってしまった。

「Economist」と並行して日本の雑誌もと、かつて「ウェッジ」を購読していた。「東洋経済」や「エコノミスト」もちらっと考えたが、発刊当時の「ウェッジ」は悪くはなかった。ところが編集方針が一度ならずも二度三度と変わっていった。政治経済の利害関係者の顔色をうかがっているとしか思えない記事がでてきたかと思ったら、あっという間にお手盛り記事が誌面を占めるようになった。なんだこれと思いながらも、そういう観点の人たちも多いんだろうな、これはこれで知っておくのも悪くないかと購読していた。それでもいい加減、なんでこんなものに金を払って、時間を使ってるのかとばかばかしくなって購読を止めた。

購読停止の電話を入れたら、購読履歴でも調べているのかちょっと待たされた。
「十年も愛読していただいてありがとうございます」に続けて、言葉を選びながら訊かれた。
「購読停止の理由を、もし問題なければ教えて頂けませんしょうか」
仕事として訊かなきゃならないのか、それとも右に転がっていった編集方針を押し戻すために読者のコメントをという気持ちもあってなのかもしれない。なんといったものかと思いながら、
「訊くまでもないでしょう」
分かっているのだろう、えっと、言葉につまっていた。
「編集方針、何度変わったんですかね。一度じゃないですよね。二度、もしかしたら三回以上変わったんじゃないですか。中曽根のゴタクがトップ記事だったときは驚きましたよ。『Time』が「朴正煕」を表紙に使ったのを思い出しましたね」
「名前は『Wedge』のままだけど、中身はずい分違うものになっちゃいましたよね。ホームの駅そばの隣がお似合いになっちゃったでしょう」
つい皮肉までいってしまった。それほど「Wedge」にはがっかりさせられていた。
「そうですね……」
「編集方針がコロコロ変わって、最初はささやかにしてもあった軸足がどこかにいっちゃって、どこに軸足があるのか分からないってんでしょうかね……」

昔の仕事仲間にお薦めの雑誌はないかと聞いていったら、一人が新潮社の「Foresight」がいいっていってきた。まあ、あいつが言うんだから悪くはないだろうと定期購読した。電話で聞いた限りでは、編集方針には自信がありそうな口ぶりだった。読み始めて驚いた。どこにも雑誌としての基軸がみえない。どの記事も寄稿者の限られた知識の底が透けて見える。フリーのジャーナリストという売文稼業の限界を晒しているようだった。翻訳物は、翻訳日本語のままというだけでなく、日本のうるさい読者がよってたっている視点に関する知識が欠落していた。当然のこととして、この記事とあの記事とを整合だてる、これが「Foresight」だという編集方針があるようには見えなかった。バラバラの寄稿者をしきる腕力がない。
「Economist」を十年以上購読してきて、あまりにもしっかりし(過ぎ)た編集方針――産業資本家の視点に疲れてはいたが、Quality paperとしての顔をもたない、雑貨屋のような雑誌からなにか拾い物はないかというような読み方をする気はない。
年間購読を更新する気にはなれなかった。購読停止の電話をいれたら、「Wedge」と似たようなことを訊かれた。
「Economistを例にあげて申し訳ないが、Foresightは寄稿記事の寄せ集めで雑誌としての顔がみえない。雑貨屋じゃないでしょう」
「編集方針はしっかりしてますよ」と食い下がってきた。
なにを言っても無駄だと思いながらも、つい、
「Economistを参考にしたらどうでしょう」といったら、
「Foresightの方がしっかりしてます」
「そうお考えならそれでよろしいんじゃないですか。愚生にはそうはみえない。それだけです」

「Economist」臭さに疲れて、十年以上購読してきたのを止めた。一つにはアメリカなら一冊二ドルかそこらで買えるのに日本で年間購読すると四万円近くする。この価格差をおしても購読する価値があるのか?
毎週毎週追われるかのように読み続けた「Economist」が来なくなったときは、寂しさもあったし、情報入手の大きな手だて失ってしまったような気がした。ところがWebで情報を漁り出したとたん、そんな心配、Webで情報漁りをしたことのない人が持つかもしれない危惧に過ぎないことに気がついた。社会一般をカバーする総合誌的なQuality paperの外に特定の領域に特化したサイトがいくつもあって読み切れない。そんなことも知らずにEconomistにひっかかっていたのが恥ずかしい。今、一つ何を定期購読したいかと訊かれれば、迷うことなく「The Atlantic」を挙げる。内容もさることながら、洗練された文章には気品すら感じる。新聞とは違う。どの記事も数行読めば、違う世界に入ったような気にさえさせてくれる。

Webでいろいろ読んでることもあって、朝日新聞を止めても何も困っているような気がしない。それどころか、朝日新聞がいかに書いていないかを確認するようなことさえある。「ひ」が言えない東京下町のなまりのまま「浅し新聞」とでも改名すれば、名は体を表していいんじゃないですかと皮肉の一つも言いたくなる。
毎日一階の郵便ポストから取ってくる手間も、月々古新聞をマンションの紙ごみ置き場に持って行く作業からも解放されてせいせいしている。

オヤジの時代とは時代が違う。新聞は購読するのが社会人としての常識から、停止へ、そして購読するなど考えたこともない世代へと時代が変わっている。古希もすぎて残された時間もすくない。三十五年もお付き合いしたんだし、もういいだろう。
2021/06/19