イタリアの靴、中国の靴(改版1)

古希もすぎて改めて振り返ってみれば、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどと言われた時代を走り抜けてきただけの、絵に描いたような俗物だったとしか思えない。
七十二(昭和四十七)年に高専を卒業して就職したら、伝統的な製造業だからからか土曜はまだ半ドンだった。我孫子の工場で二十時間ほどの残業手当を入れても手取りはたかだか四万円しかなかった。そんな薄給のサラリーマンにブランド品なんか縁があるとは思ってもみなかった、というよりブランド品というものがあることすら知らなかった。

それが日本の経済発展に引きずられて、ブランド品の名前を見聞きするようになっていった。自分には関係のないもと思ってはいても、そんなものがあることを知れば、自然とほのかな憧れが膨らんでいく。そうこうしているうちに、ちょっと無理すればささやかながらもという生活になっていった。バーバリーのコートやマフラーにバッグ、ダンヒルのライターにネクタイ、そしてイタリアの靴ぐらいまでなら、頑張ってきた自分へのご褒美と言い訳半分で、手がとどくようになった。
ただどれも庶民でも手の届くブランド品で、今になってみれば、きちんとヨーロッパのブランド商法に取り込まれていたということだった。本物のというのもへんだが、高級ブランドとはいってもピンからキリまでで、ピンともなれば雲のうえの資産家や富裕な王侯貴族御用達で、そんなものが存在することを多少なりとも知ったのはつい最近のことで何年も前じゃない。

あれこれ憧れはあったが、腕時計と靴だけは日本メーカに限定していた。一介の機械屋として、見てくれより時計としての正確さにこだわり続けるセイコーには畏敬の念がある。グランドセイコーにしても普通の時計の面構えで、スイスの時計のような、いかにもという外面はない。靴はペダラが基本で変わらない。足長25センチに4Eという幅広から選択肢が限られていて、値段と履きやすさではペダラ以上のものがあるとは思えない。

こんなことを改めて考えだしたきっかけは、井上ひさしの『ボローニャ紀行』を読んだことだった。日本語の整理をと思って井上ひさしを何冊か読んでいって、面白そうだと図書館で借りてきた。楽しく読めて、考えさせられることの多い本だった。著者が思いもしなかった、とうより反対側からみた景色に近いものを見てしまったような気がしないでもないが、あってしかるべき読み方だったと思っている。ちょっと長くなるが、考えるきっかけとなったところを書き写しておく。

「ボローニャに着いた翌日、ホテルの裏の靴屋さんで、『靴をつくってほしい』と言ったところ、『二ヶ月くらいかかるが、それでよろしいか』という答えがかえってきたので驚きました」
「『採寸してから二週間くらいで利き足の靴を造る。その一方だけの靴を室内で一ヶ月ほど履いてもらい、その感想を伺いたい。そのとき、お客さまの方からいろいろ注文を出していただく。そこで改めて本式に靴をつくる』と聞き、二度びっくりしました。そしてご主人から『靴は第二の足ですからな、そのぐらい念をいれなきゃなりませんよ』と説教されて帰ってきました」
ことのついでに、井上ひさしを先生と呼んでいたクライアントの女性社員からの話を付け加えておく。
「ボローニャ発のファッションブランドには、テストーニのほかに、フルラ、ブルーノマリ、それと先生はご存知ないかもしれませんが『ラ・ペルラ』という、女性の憧れの超高級下着ブランドがありまして、それはそれは美しくて高いのです」

並べられたブランドなど聞いたこともなかった。どんなものかとググってみて驚いた。世界のセレブの御用達なのだろう。決して買えない値段ではないにしてもワイシャツ一枚が五万六万円。そんなシャツ、ボーナスもよかったし、ここはセレブになったつもりで思い切って、とはならない。ワイシャツは一万円ちょっとまでが限度で、二の足を踏むどころか最初の一歩が出ない。

片足のサンプルで評価して、採寸から出来上がりまで二ヶ月の靴、ワーキングシューズしか知らないものには目の毒だろう。一目見てほれぼれして、履けば納得を越えて幸せにしてくれるものだと思う。ちょうどいい重さで履きやすいだろうし、きちんと修理していけば何年も履けるものなのだろう。街を歩けば、昨日までの自分とは違う自分になった気にさせてくれる。そんな一足、一度でいいから履いてみたい。でもラッシュアワーで踏まれたらなんて、ありもしないことを想像していたら、何かおかしいと思いだした。どうにも腑に落ちない。
イタリア経済の低迷は今にはじまったことじゃない。ミラノファッションがあかるい話題を振りまいていても、自動車も含めた製造業は地盤低下どころか崩壊に近そうだし失業率も高い。若い人たちが職をもとめてドイツに出稼ぎにというニュースを聞いたのも一度や二度じゃない。

そんなところで、市井の人たちが二ヶ月かけて靴をあつらえているのか?イタリア人は食うものも食わずに靴道楽?日本人の偏見かもしれないが、そんなもの普通に考えて、ありえないだろう。何年も前になるが、「Economist」か何かで、イタリアの靴業界の苦境伝える記事を読んだ記憶がある。
似たような記事はいくらでもあるだろうと探してみた。気になる記事はいくらでもあるが、これといった記事を三、四本も目を通せば大まかな全体像はみえてくる。そこには二ヶ月もかけて職人が一品一品仕上げる靴とは別の世界があった。

イタリアの靴業界が置かれた状況をざっとまとめれば次のようになる。申し訳ないが最初にお詫びを一言許してほしい。何を読んだところで所詮素人の雑感。とんでもない間違いはないと思うが、抜けもあればズレもあることご了承いただきたい。

八十年初頭からだろうか、日用雑貨から始まった中国製の衣料品や靴やバッグが廉価を武器にアメリカ市場に、そしてヨーロッパ市場に入り込んでいった。二〇〇一には世界貿易機関(WTO)に加盟して、世界中の市場へのアクセスが容易になったこともあって急成長をとげている。
アメリカやドイツからの低価格を要求されたイタリアの靴メーカのなかには、製造コストを削減すべく東欧に生産基地を設けたところもあった。ところが職人の手仕事の文化を引きずったイタリアの靴メーカでは豊富で低廉な労働力にくわえて大量生産体制をしいた中国メーカに太刀打ちできなかった。イタリアの靴の輸出は往時の六割ほどまで減少した。

Hong Kong Trade Development Council (香港貿易発展局)の報告によると、中国の履物産業の中心は南東部にある。製造している製品から四つのカテゴリーに分けられる。中・高級靴が主力の広州と東莞を中心とした広東省。中・低価格の紳士靴の温州や台州を中心とした浙江省。中・低価格帯の婦人靴の成都や重慶を中心とした西部地域。スポーツシューズが主力の福建省の泉州と錦江。

中国は半世紀以上に渡って、全ての履物製品の世界最大のサプライヤーで、二〇一六年には、四七二億ドルの履物を輸出して、世界履物市場の三五・五パーセントを占めている。主な輸出先は、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、そして中東。

中国メーカは廉価品から中級製品を中心に世界市場を席捲してきたが、高騰する人件費対策として生産基地を東南アジアに展開してきた。さらに利幅の大きな高級品へのビジネスの幅を広げている。高級ブランドを確立すべくイタリアやドイツからデザイナーやコンサルタントを招いて、ヨーロッパの製造設備も導入してきた。さらに崩壊状態に陥ったイタリアに進出して、中国人によるイタリア製の靴を世界市場に輸出するまでになった。

生産だけでなく、消費の面でも中国の比重が増している。世界の高級品の約三五パーセントを消費し、二〇一九年には高級品市場の成長の九〇パーセントを中国が占めている。それは履物にも言えることで、二月一三日付けの新華社が伝えるところでは、二〇一八年のイタリアの靴の輸出が中国市場の二〇パーセントの伸びに支えられて、復活してきている。中国人がつくったイタリアの会社で、イタリア人と中国人が生産した靴が、イタリア製の靴として中国に輸出されている。

世界の靴市場が廉価な中国製に席巻される過程でイタリアの靴産業は崩壊に瀕したが、いまや中国とむすびつくことによって、かつてと同じではないにしても再生していく姿が見える。それは靴だけではない。名のあるヨーロッパのブランドファッションが、中国どころかバングラディッシュのスウェットショップの児童労働によって作られていることも多い。豊富で低廉な労働力を背景にした大量生産の中級製品と大衆向けブランド品までと、工芸品のような高級品のすみ分けが進んで、しばし名前だけがヨーロッパ製の高級ブランド市場構造が作り上げられていった。

工芸品のヨーロッパ、ウィンブルドンシンドロームをもじっていえば、ローレックスシンドロームと言えるかもしれない。
腕時計としての機能も性能も一万円かそこらのセイコーの方が五十万円、百万円はするローレックスより遥かに優れている。モノとしては優れていても、利益率でみれば工芸品に太刀打ちできない淋しい現実がある。額に汗して働く新興国とかつての遺産の上に成りたっている旧宗主国のようなヨーロッパ。ヨーロッパのブランド戦略に乗せられているようで、どうにも割が合わない。
東京オリンピックのゴタゴタをニュースで見るたびに、ヨーロッパの軛に近いものを感じずにはいられない。明治維新以降法体系から科学や技術、挙句の果てに思想まで移植してきた歴史が思考の慣性として残ったままのような気がする。

p.s.
<参考にした記事>
China becomes driving force for Italian footwear exports
http://www.xinhuanet.com/english/2019-02/14/c_137819268.htm

Footwear Industry in China Remains The Largest in the World
https://blog.bizvibe.com/blog/fashionaccessories-footwear-supplies/footwear-industry-china-remains-largest

Italian Shoe Brands Were Banking on China’s Booming Luxury Market ? Now What?
https://footwearnews.com/2020/business/retail/italian-luxury-shoe-sales-china-coronavirus-1202931203/

The Chinese Roots of Italy’s Far-Right Rage
https://www.nytimes.com/2019/12/05/business/italy-china-far-right.html


<ペダラとの出会い>
就職してスーツを着る生活になった。寮と工場の往復だけなのに、きちんとスーツを着てネクタイを締めていた。工場に入ればすぐナッパ服に着替えるのに、通勤にはスーツが当たり前だと疑いもしなかった。そして靴はできるだけ個性のない黒が決まりだと思っていた。
スーツは仕事のモードに入った時のもので、仕事を離れたところではジーンズか綿のズボンだった。カジュアルなズボンに没個性の黒の靴は履けない。適当なスニーカを履いていた。野暮な生活が染みついていて、ファッションに特別関心があるわけでもなかったが、スーツ用とカジュアル用を履きわけていた。

三十過ぎて翻訳屋になったら、スーツを着る機会がほとんどなくなった。カジュアルが日常になって、スーツに合ったものというしばりがなくなった。通勤で西武新宿―JR新宿間を歩いていたこともあって靴屋も新宿になった。伊勢丹や三越まで歩くのが億劫でサブナードのチヨダかワシントンをみていた。
身長一七〇センチ、足長二五センチまではまだいいとしても、4Eという幅広が問題だった。最近は4Eも珍しくなくなったが、そんな寸法などあることも知らずに買い替えては靴擦れに悩まされることも多かった。

チヨダかワシントンかどっちだったか忘れたが、ある日、これだという靴に巡り合った。巡り合ったなどと大袈裟なとは思うが、三十半ばから古希を迎えても、そのブランドの似たような形の靴を履き続けているから、そういってもいいすぎじゃないだろう。最近見かけなくなったが、当時ブランドイメージの定着をと思ってのことだろうが、ビーバーのぬいぐるみが飾ってあった。
店員に進められるままに履いて驚いた。どこにも圧迫感がない。履きならしてきた靴より馴染みがいい。ボロボロになった足袋のようにとでもいうのか足の一部のような感さえあった。

ペダラというアシックスのウォーキングシューズで、こう言っては失礼になりかねないがファッション性に富んでいるとはいえない。量販店においてある靴ではないが、けっして高級な靴ではない。
軽くて履きやすいが、工事現場や砂利道を歩くのには向かない。丈夫じゃないのはしょうがないにしても、一年どころか数か月もすれば、水が染み込んでくる欠点がある。八十年代にはソールの改良がなされて、割れや欠けはなくなったが、履き心地は犠牲になった。

雨が降ったら水が滲みてにうんざりして、なんども別のメーカを試してみたが、ペダラに慣れてしまった足には合わなかった。
三十五歳を前にしてまたスーツ着用の仕事に戻ったが、翻訳屋でカジュアルに慣れきって、もう疲れる靴は履けない。同じ形の黒と茶を一足ずつに、雨用のウォーキングシューズに、夏の短パンにあわせたスニーカの四足を履きわけている。
2021/7/3