ベーカリーなんだからベークにしちゃえば(改版1)

パンは買ってくるもので、まさか自分で焼くなど考えたこともなかった。それが、六年ほど前に娘がパン焼き器を買ってきたことから始まった。爾来、毎週のように焼き続けている。包丁をもつのが怖くて料理などできやしないが、パンなら焼ける。買いに行くより楽だし安いし、なにより無添加で安心。あれこれ試す楽しみもある。たまに発酵が上手くいかなくて、口惜しい思いをすることもあるが、どうしてだろうと試行錯誤するのも悪くない。

焼いているというと、小麦粉を捏ねて発酵させて寝かせて、という面倒な作業をイメージされる方もいらっしゃるだろうから、早々にお断りしておく。焼いているのはパン焼き器で、こちらとしては素材を計量してパン焼き器にセットしてスイッチを押しているだけで、なにをしているわけでもない。五時間もすれば美味しい無添加のパンが焼きあがる。洗濯機の「おまかせ全自動」のような機能を想像して頂ければいい。

パン焼き器についてきた取説に定番のパンどころか、こんなパンもあったのかというレシピが載っている。そこから遊び半分、ちょっとした実験というのか冒険を始めた。強力粉に薄力粉をくわえて中力粉もどきにしてみたり、全粒粉やライムギを混ぜて比率をいろいろ変えてみた。さらにチーズを入れたりレーズンやバナナ、きな粉やココアやオレンジマーマレードに卵を加えたりとあれこれやってきた。自分が食べるもので、どなたかに食していただくものでもなし、好き勝手になんでも試せる。たとえ変なものが焼きあがってきても、自分で食べればいいだけだし、発酵さえしていれば、食べられないものがでてくることはない(と経験から思っている)。

それもこれも自動パン焼き器があればこその話なのだが、ずい分普及しているようで日本国中に似たようなことをしている人がたくさんいる。なかにはご自慢のレシピをWebで公開している人もいる。おまかせ全自動なんだから、なにもそこまで凝ったことをしなくてもと思うものもあるが、お手軽チャレンジの参考になるものも多い。
重宝しているパン焼き器の宣伝になりかねないので気が引けるが、Webでレシピを探すとき「HBレシピ」で検索した方が手っ取り早いかもしれない。HBは、パナソニックの自動パン焼き器の商品(シリーズ?)名で、ホームベーカリーの英語Home Bakeryの略語。パナソニック以外にもいくつもメーカが自動パン焼き器を出しているが、パナソニックの知名度のせいかHBが自動パン焼き器の代名詞のようになっている。

レシピサイトには本家HBだけでなく、料理サイトの定番ともいえるcookpadやrakutenのほかにもいろいろある。サイトを見ていくと、せっかく自動パン焼き器を使ってるのに、なんでこんな手のこんだパンをと驚かされるものも多い。そこまでやるんだったら、ニーダー(生地作り専用のこね機)を使って、電子オーブンレンジで焼いた方がいいじゃない、と余計な一言を言ってみたくもなる。
あれこれレシピサイトを見るたびに、レシピの内容以上に日本語が気になってしょうがない。「みんなが作っているパン」「パンの作り方」「簡単パンの作り方」「フライパンでパン作り」……と並んでいる。いつの間にやらパンは焼くものではなく作るものになったのかもしれないと思いながらも、パンは焼くもので、作るというのがどうにもしっくりこない。

パンを焼くを英語で言えば、Bakeになる。パナソニックもそこからホームベーカリーという商品名をつけている。ベーカリーはすでに日本語として定着したのに、Bakeは日本語になっていない。Ingredientsも日本語になっていないから、レシピをみるとパンの素材は「材料」と記されている。材料ときくと、食べものというより無機質な工業製品をイメージしてしまうのは機械屋出身だからかなのか、どうにも落ち着かない。

明治の先達が先進欧米諸国から何から何まで持ち込んで、漢文の素養のもとにあらゆるものを日本語に翻訳していった。もともとあった日本語にその翻訳日本語を上乗せしたかたちで現代日本語が成り立っている。漢語の扱いにむずかしいことがあったのだろう、漢語に訳されたものの多くは名詞で、動詞は限られている。日本語には「する」という便利な言葉があるのが幸いしたのか、それが漢字を使った翻訳の限界を問題としないですんだ。
科学技術の進歩が社会経済の急激な変化をもたらして、もう外国語を漢字を駆使して日本語に置き換えるのが間に合わなくなってしまった。外国語の発音をカタカナで表記したカタカナ日本語が増え続けている。

<ちょっと寄り道>
増えるだけならまだしも、和製英語が氾濫して、しばし何を言っているのか考えてしまうこと多い。そんな英語ありませんよといったところで、信じない人も多い。クリーブランドで仕事をしていたとき、某自動車部品メーカのエライさんが出張してきて三河弁まじりの和製英語を乱発されて通訳に往生したことがある。なまじかじっているだけに性質が悪い。こっちがちゃんとした英語に訳してるのを隣で聞いて、お前ちゃんと訳せと言わんばかりの顔をして和製英語で言い直していた。言い直したところで通じやしないが、せっかくうまく流してきた丁々発止のやりとりがつまづいてしまう。
身近な和製英語はいくらもあるが、典型の一つにデッドボールがある。和製英語であることを知っている人のほうが少ないんじゃないかと思う。一度Google Chromeで調べてみることをお勧めする。

寄り道から本文に戻ります。
ところがカタカナ表記でも処理しきれない言葉もある。その身近なものの一つがBakeだろう。ベーカリーは日本語になって、街のあちこちに何とかベーカリーという看板を掲げたパン屋さんまであるにベークとはならない。ベークの響きがいまいちなのだろう。
でも、パンをトーストするものをトースターと呼んでいるんだし、パンを焼く家電製品をベーカリーって呼んでいるんだから、もうパンを作るなんて言ってないで、ベークすると言ってしまった方がすっきりするんじゃないかと思んだけど、どうだろう。

p.s.
<BakeとToast>
英語を母語としない人たちにも使いやすい英語辞典Longmanのサイトをみてみた。BakeとToastは下記のように説明されている。
Bake:
to cook something using dry heat, in an oven。オーブンを使って乾熱で料理する。
Toast:
bread that has been heated so that it is brown on both sides and no longer soft。
裏も表も茶色になって柔らかくなくなるまで加熱したパン。

<Toastがトーストに落ち着く前は>
永井荷風の『つゆのあとさき』に「鶴子は毎朝一人で牛乳に焼麺麭を朝飯に代え……」というくだりがある。
ウィキペディアによると、『つゆのあとさき』は当初『夏の草』という仮題で一九三一(昭和六)年に脱稿された。

当時はまだトーストを見たことない人たちも多かったろうから、Toastをトーストと呼んですませるわけにはいかなかったのだろう。顕学がなんとかモノを想像できるようにと考えたすえの「焼麺麭」だろうが、巷の庶民が三文字の漢字を初めてみたら、まず何と読むのかが先だったろうし、たとえ「やきめんばお」と読めたとしても、モノを見たことにない人がトーストをイメージできたとは思えない。
『大辞林 第三版』には、「麺麭・?麭・麪包」「小麦粉を主な原料とし、水でこね、イーストを加えて発酵させてから焼きあげた食品」という記述があるらしいが、庶民がそこまで調べるのは容易なことではない。やっと辞書を手にして説明を読んだところで、「焼麺麭」からトーストをイメージできるとは思えない。食べてみるまで分からない人のほうが多かったんじゃないかと想像している。
2021/7/10