信じる呪縛より疑う呪縛(改版1)

分からないことばかりで、あれこれ読んでは考えている。年相応にはほど遠いいが、考えなきゃって抵抗を試みる最低限のものはありそうだし、あきらめるのはまだ早い。ただ、手持ちのちゃちな知識だけでは、いくら考えても堂々巡りになるだけで埒が明かない。そこから一歩先にと思って本やWebでいろいろ漁って、知らなかったことを知って理解を深めなければとやってはいるが、いかんせん萎びたオヤジの牛歩の歩み。残された時間も限られているなかで一歩いっぽにしても、どっちに向かっているのか心配になる。

少し分かってきたかなと思えるところまでくると、気にしてきた疑問が多少にしてもはっきりしてくる。それはそれで一歩前進なんだが、しばし想像もしていなかった分からないことがあることに気がついて、また調べて考えてが続く。調べていけば、知っていることや、考えてきたことに疑問を突き付けるようなこともでてくる。そこから知識の欠陥を補う情報探しをはじめるが、多少なりとも手をいれてきた四阿に欠けていた知識やそれに近いものの見当がつく前に、別の欠陥が見えてくることも多い。

何をしているのか?と自分でも呆れるぐらいだから、他人の目には何をしているようにも見えないだろうし、いくらひいき目にみてくれたにしても、自己満足ぐらいにしか思っちゃくれないだろう。自分でも半分以上はそういえないこともないと思っているから、否定はしないが、いくらやっても自己満足にもならないというのか、なりっこないということに気がつく人はそういない。
やっていることを巷の普通の常識にてらせば、どうみても生産的な活動とは言えないし、社会についても自然に関しても、自分自身のことですら説明しきれないとうのか、ろくにわからない。やっとこういう視点でこう考えれば、こう説明すれば納得できるじゃないかというところにたどり着けたと思っても、はたしてそれで本当に説明になっているのか、どこかに見落としがあるんじゃないか、それ以上に視点がずれているんじゃないか、あるいはとんでもない別の、それもいくつもの視点があるかもしれないじゃないかという疑問はなくならない。やっとたどりついた自分を納得させている考えを、それまで以上に疑いの目でみようとする自分がいる。

いくら情報を漁って知識の再構築をかさねていっても、できることはその時点でそれなりに納得し得るだけで、来月、もしかしたら来週、へたをすれば明日にはまた知らなかったことに気がついて、やり直しになるんじゃなかかという気がしてならない。いつまでたっても、自分に説明している自分に対する疑いはなくならない。

その背景にはまず自分が納得しえなければ、人に話なんかできないじゃないかという、あって当たり前の気持ちがある。納得させんがために、疑って、調べて、考えてはいいけれど、疑いがはれることなんかないんだから、いっそのこと、何か信じられるものはないのかと思いだす。何かを信じられれば、疑うこともなくなるんじゃないかと。

ところが、どう考えても信じるものに従う安穏な生活は、自分のもっとも大事な部分を放棄することになるような気がしてならない。事例をあげた方が分かりやすい。
アイヒマンの証言がある。

アイヒマンは、ナチス親衛隊の高級将校としてユダヤ人絶滅政策を指揮して、六百万人におよぶ殺害の中心的役割を果たした。そして、一九六一年イスラエルで裁判にかけられて、次のように自己弁護した。
「自分は命令を実行しただけだから無実である」
「服従の精神はドイツ人生得のもので、したがって自分はドイツ民族固有の服従の文化の犠牲者にすぎない」
これは、藤村信の『新しいヨーロッパ古いアメリカ』の一節を略した引用だが、ドイツを代表する巨大コングロマリットの一事業部の日本支社で働いていたとき、アイヒマンのいうドイツ民族固有の精神構造をいやというほど見せられた。

客先は、堅実な設計と製造で知られた工作機械メーカで世界最大のビジネス規模を誇っていた。そこでやっと初受注にこぎつけたのに、納入されたモータは錆びて壊れていた。あまりのことに客は呆れて、怒るのを忘れてしまったかのようだった。何年もかけて開発してきた戦略機種でなんとしても展示会に間に合わせなければならない、と担当者に泣きこまれて、ドイツの本社までいって技術担当と対策を話した。いくら話したところで対策もなにもありゃしない。ちゃんとした製品を送るしかない。ああだのこうだのとの理屈をこねられたが、事実として発送されたモータは発送時点で壊れていた。リニアモータの磁石が大きく割れていて、梱包箱のなかに割れた欠片はなかった。サーボモータのフランジは、なんでと思うほど錆びていた。そんな状態の製品、現実問題として日本では修理できない。

半日以上御託をきかされて、やっとのことで良品と交換する確約をとりつけた。ところが、いざ上司も含めての会議になったら、「客先の扱いが粗雑だったのが障害の原因だ」という上司の高貴なethnocentrism臭さで吐気をもよおすお告げを粛々と拝聴するだけで、自分からは一言も言わない。おい、お前、さっきまでの御託と合意はなんだったんだと、ケツをけとばしたくなった。
ここからがお笑いで、だれが何をいったところで事実と現実問題がやらなければならないことを規定している。上司に内緒で、担当者同士がなんとかかんとか、まるでドイツ版「プロジェクトX」だった。

そんなことは日本にだってどこにだってある。ただ、日本では見慣れた風景になってしまって、目の前を通りすぎていくだけになっている。それがドイツという違う文化の中で目の当たりにすると、いやでも考えさせられる。
とくにあそこでは意見の開陳は下にむかってするもので、上に向かってするものじゃないらしい。そうとでも考えなければ、起きたことの説明がつかない。上っ面の理解だとしかられそうだが、その理解を否定する状況に遭遇したこともなければ、何人もの仕事仲間から聞いたこともない。

アイヒマンのいう服従、何に対する服従なのか。上司なのか領主なのか国家なのか主人なのか、はたまた宗教上の神なのか、それとも顕学が残した教義なのか、あるいは広く一般社会の慣習なのか? いずれしても、服従とは自分の手で情報を漁って、自分の頭で考えることを放棄することに他ならない。

ここで自分自身をも疑う反対側――信じるものに服従する側にはどんな景色があるのか想像してみると、そこにはそこで似たようなことがあるんじゃないかと思いだす。疑うという呪縛から自由になれない自分がいる一方で、信じるという呪縛から自由になれない人たちもいるんじゃないか。それは高名な先達が築き上げてきた哲学や経済学、あるいは社会学でもなんでもかまわなが、大層な教義の呪縛から自由になれない人たちもいれば、宗教の呪縛から自由になれない人たちもいる。程度の違いがあるせよ、所属する社会やコミュニティの常識から自由になれない人たち、だれもかれもがなんらかの常識なり慣習や既定に拘束されているんじゃないか。疑うのも信じるのもどっちも呪縛なら、疑う呪縛のほうがいい。
疑うという呪縛には、信じるという呪縛にはない自由がある。
2021/2/5