調べて調べて読んでます(改版1)

随分前に石原吉郎という、どうにも重すぎて手に負えない人がいることを知った。忘れていたのに鶴見俊輔が引用したのを、たかが数ページだが読んでしまった。石原吉郎ねぇ、どうしたものか。読まなければと思っても手をだすのが怖い。下手にだしたら、それこそ大地震にでもあったように収拾がつかなくなるかもしれない。数か月ためらっていた。読まないで素通りしたほうがと思いながら、いつまでもどうするかなんて気にしているのだったら、さっさと読んでしまえばいいじゃないかと図書館で借りてきた。

怖れていたとおり重すぎた。知らなかったことにして、どこかに押し込んでしまえないかとやってみたが、あまりに重すぎて梃子でも動かない。ソ連の強制収容所での体験から生まれた崖っぷち、こっちの日常生活の視点からはあまりに距離がありすぎる。本を通しての疑似体験でしかないのに、崖っぷちから落ちることもできずに、しがみついたままほっぽりだされたような気がする。ここは、口直しに鶴見俊輔の思い出話にでも浸ってみるかと図書館の蔵書を眺めていたら、黒川創が聞き手になった対談がみつかった。

数か月前に黒川創の『ウィーン近郊』のしつこさに呆れたこともあって、鶴見俊輔にどんなことを言わせているのか気になって借りてきた。机に向かって本を手にして焦った。書名が読めない。なんて読むんだろうと、WindowsのIME(Input Method Editor)パッドー手書きで漢字を書き込んだ。なんだ、そうだったのか、まや不勉強を思い知らされた。
『不逞老人』の「不逞」、てっきり「太え」だとばかり思っていた。横町でオヤジがチンピラ相手に「ふてえヤツラ」だと言っているのを、子どものときに映画かなにかで観て音で覚えていたのだろう。本を読んでいれば、この「太え」が「不逞」と似たようなことや、口に出して読めない漢字にでくわす。なかには字画が多すぎて、拡大鏡を取り出して見るようなことを毎日繰り返している。

「ノーベル賞でも貰ったしにゃ、」という題の拙稿を「ちきゅう座」に投稿したら、「ノーベル賞でも貰ったし(日)にゃ、」と手をいれて2014年 8月 16日付けで掲載してくださった。そこで初めて、「日」だったことを知った。

http://chikyuza.net/archives/46675

町屋で生まれて、「ひ」がいえずに百円は「しゃくえん」だった。田無に引っ越してなおったものの、未だに方言が残っている。

本を読む習慣のない家庭に育ったこともあって、文学書の類には縁がなかった。就職して転職して、ゆく先々で仕事に直接関係する本や資料に埋もれるような毎日だった。還暦も過ぎて自分に使える時間が出てくれば、気持ちの余裕も生まれてくるものだと思っていた。ところが残された時間を考えると、のんびりはしていられない。複雑な家庭で青少年期に本に親しんで人間形成をという機会がなかったこともあってだろうが、情操や思考に欠陥があるんじゃないかという恐怖ににた不安がある。仕事仕事で目の前の不安に突き動かされてきた受け身の不安ではなく、自分のなかから湧き出てくる不安にかられて人文系の本読み始めた。

仕事では英語を使う機会が多かった。時にはほとんど日本語を使わない時期さえあった。本を読み始めてあまりに日本語の知識と教養が足りないことに愕然としてきた。読めない漢字がでてくれば、分からないことがあれば、Google Chromeで調べて読み進めている。PCとWebなしでは、何?と思ったときに調べようがない。出先でタブレット使ってでは手間を食ってしょうがない。一日中PCを右前に本を左において、時間との競争をしているようなことをしている。

記憶と思考の根幹にある日本語をしっかりしなければと、訳本をさけてきた。水垢が溜まるように多少は日本語の土台らしきものの欠片ができてきたのか、どうにも辻褄のあわない文章や目先の技巧に走りすぎた文体に出会うとイライラする。それが禄を食んできた専門領域の話となると、よくて流し読み。ときには十ページぐらいで止めてしまうこともある。年も年で、残されている時間はいくらもない。日本語になっていなかったり、だらしのないロジックや言葉の定義がいいかげんな本に付き合っている時間はない。

海外で何が起きているのか大まかに掴んでおかなければと英語のニュースを昼過ぎから早朝まで読んでいる。本とWebのニュースを往ったり来たりで一日が終わる。知らない、覚えきれない単語や言い回しがでてくるたびにWebで調べる。日本語でも調べることが多いが、英語となると自分でも呆れるほど調べて調べてになる。本を読んでいる時間よりWebで調べている時間の方が長いなんてこともある。

Webが発達して便利になった。便利になったのに横着して、わからないまま先にすすんだら、本来なら拾えるもの、拾わなければならないものを拾わずにということになる。素通りしてきたことに後で気がついて、後悔するまでならまだしも、気がつきもしないでだけは避けたい。
本にしてもニュースにしても一日中調べて調べてが続く。PCとWebなしでは読めなくなってしまった。知り合いの何人もからPCもWebも使わないと聞いたときは驚いた。そんなことしなくても読み進めるだけの知識があるということなのだろう。いつになったら、そんなところにまでたどり着けるのか、想像もつかない。
2021/3/13