ブン屋

ブン屋の話なのかと思ったら、いきなりニュートンとケプラー、なんだ?と思われるだろうが我慢して読んで頂きたい。
もしかしたらニュートンは覚えているけど、ケプラーは?という人もいるかもしれない。今更の感もあるが、ウィキペディアでケプラーについて一読されるのも無駄じゃないと思う。面倒という人のためにウィキペディアの記述をまとめておく。“ケプラーは16世紀のドイツの天文学者。デンマークの天文学者ブラーエの助手として膨大な観測データを引き継ぐとともに天体観測を続け、ケプラーの法則にまで至った先駆的な天体物理学者”。 望遠鏡がなかった時代なので、機器を使ったにしても観測は肉眼ででしかなかった。肉眼で観測できる最高精度の観測データを蓄積し、それに基いて惑星の軌道が円ではなく楕円、面速度一定。。。というケプラーの法則を導くに至る。ケプラー以前は、惑星の軌道が円と考えていたためもあって、地動説にしても天体の軌道をすっきり説明できなかった。ケプラーの法則が地動説の優位性をはっきり示した。キリスト教の呪縛でがんじがらめの中世ヨーロッパでよくここまでと思う。
ケプラーは実に偉大な、先駆的な天文学者だとは思うのだが、超のつく肉眼天体観測屋のイメージがつきまとう。高精度の観測データを蓄積し己の名を冠した法則まで行ったが、ニュートンの力によらなければ物理学としての体系は構築できなかった。高精度の観測データはニュートンが万有引力の法則を導き出す基礎データとなった。万有引力の法則があまりにすっきりした数式でまとめられていることとその汎用性もあって、ケプラーの法則は、彼の高精度な観測データに比べるとその存在感がない。
ケプラーとニュートンの関係と似たような関係が、ジャーナリストと研究者(学者)の間にある。ジャーナリストの責務は、目の前に起きていることを忠実にかつ偏見なしに報道することだろう。ジャーナリズムは、報道を受け取る側にその報道を理解する能力があることを前提としている。報道をよりよく理解してもらうために、報道している事実に至った経緯や報道内容を支える科学的、社会的裏付けまで含めて報道する、解説をつけることも多いが、基本は事実を事実として伝えることで、報道内容をどう理解するか、判断するかは本質的に報道を受け取る側の作業でジャーナリズム側が責任を持つことではない。
随分前になるが日本のある著名なジャーナリスト(俗な言い方でいえばブン屋あがりとでもいうのか)が、政治権力の中枢にいた歩く利権の見本のような政治家の利権構造を詳細に調べ上げた本を読んだ。複雑怪奇な利権組織というか構造を丹念に調べ上げ、関係図にまとめて詳細かつ分かりやく書かれていた。読み進めるに従って、著者と彼が組織化した調査部隊とでも呼ぶべき、それも固定してはいないスタッフの能力と努力に感動した。ならばということで、次に同じ著者によるある一地方の農業の利権構造を暴露した本を読んだ。扱っている内容は違えど綿密な調査とデータに基づくレポートのような文体、論点も体裁も図で表した組織間の関係など、一冊目と同じだった。一冊目と同じように感動しそうなものなのだが、はっきりした物足りなさと妙な味付けの後味が残った。
数年前に報道姿勢と内容では定評のある米国の新聞社の中東特派員だったジャーナリストが書いた、多分ベストセラーになった本を読んだ。中東の商業や金融、文化の中心地であるベイルートから中東紛争の根源地であるエルサレムまでと題して、そのときの中東で何か起きているのか、何がその起きていることを起こらしているのかなど、真っ直ぐな視線でよく書かれていた。ではということで、長年かけて初めて安定的な収穫が得られるようになる−要は平和の象徴としてのオリーブと変化が早い現代製造業の象徴、富の象徴としてのトヨタのある車種を題名にした社会文化論のような本を手にした。途中まで読んで放り投げた。調査もそこそこしているのだろう、しっかり書かれている。それでも時間をかけて読み続ける気になれない。大衆受けを狙った訳でもないだろうが、事実を事実として伝えること以上に擦れたを超えた饐(す)えたジャーナリスティックな言い回しが鼻につく。
最近、その米国新聞社の日本支社に駐在しているジャーナリストが日本の報道のありようについて辛口の本を書いた。読んでみるかと思って図書館で借りてきた。たいした値段ではないので買ってしまえばと思いながらも躊躇があった。ざっと目を通しただけで止めた。擦れかたは許容範囲内だったが、所詮ジャーナリスト、目の前に、フツーの人なら、あるいはちょっと良識のある人なら見えること、見えてしまうことを、大衆の嗜好を知り尽くしたプロの物書きとして調味料や香辛料で味を整えてという内容にしか見えなかった。 ジャーナリストの手になる本を何冊か読んだが、本質的にケプラー以下の存在ででしかあり得ない彼らの存在に、多分大きな間違いはしていないと思うのだが、気がついてしまった。目の前の事実を真っ直ぐ捉えて、事実を生の事実としてそのまま伝えるのではなく、ジャーナリストとしてプロの書き手として生きてゆくためにも、読み手の受けを気にして味付けする必要悪のようなテクニックを駆使して己の能力を示さなければならない。ここから、しばしばまるでどうでもいい観光地の絵葉書、素のままではどこにでもある景色がいっぱしの景色に加工されているよう絵葉書になることすら起きてくる。
たとえ上手な味付けであっても味付けすれば、データが本来持っているであろう生の情報としての信頼性は損なわれる。市井の人は、常に誰かによって味付けされたデータ ? 情報しか得られない。味付けは、たとえ理解し易いようにといった善意からのものであったとしても、常に世論操作や大衆迎合の要素を含む。受け取った情報から誰かが付けた味付けを抜き去り、生のデータに復元して、復元したデータを理解するために必要な情報をどこかからかき集めてきて、初めて生のデータを理解しうる可能性がある。骨の折れる作業だが、一社会人たろうとすれば最低限しようと努力するしかない。それでなくても骨の折れる作業、できれば下手な味付けだけはしないで欲しい。したところで、たかがブン屋(失礼)の味付け、世論操作に堕しかねない。味付けはあっても薄味、ないにこしたことはない。少なくとも味抜きの手間は省ける。ケプラーはその時代が可能にした最も精度の高い天体観測を地道に続け、観測データの処理はそこそこまでだったが、彼の観測データ = 生のデータは物理学体系にまとめることができるニュートンに引き継がれた。ニュートンたりえるとも思わないが、世論操作に乗せられるのは御免こうむる。