夜郎自大

誰もが、今までの経験や学習で蓄積した知識と、その知識をもとに構築した能力−ものやことがらを理解する能力−から見聞きすることを理解し判断する。単に能力と言ってはいるが、“ある”か“ない”かがはっきりした能力もあれば、あるにはあるが、そのレベルの違いが、“ある”、“ない”という評価になる能力もある。
能力において人は同じではない。非常に優れた能力をもっている人もいれば、そうでない人もいる。人の能力を評価するには、評価する側が評価される側が持っている能力以上の能力を持っていること、あるいは少なくとも評価する能力をもっていることが必須となる。稚拙な比喩になるが、100cmまでの物差しか持ってない人はそのままでは100cmまでのものしか測れない。距離であれば、測定を千回繰り返して1kmの距離を図れないこともないが、人の能力の評価で繰り返し測定はない。
評価と言っても、能力にもさまざまなものがある。距離の測定を例としてあげたが、これが重量になれば測定方法も違えば、単位も違う。同じことが能力の評価にも言える。評価する側が評価される側の以上の能力だけではなく、同じ類の能力で評価される側より優れていることが必要になる。
こう考えてくると、解決不可能な問題がでてくる。相手の能力を“適正”に評価するには、その相手が持っている“ある類の能力”を超える“ある類の能力”を持っていなければならないことになる。これはあり得ない。AさんがBさんを評価して、BさんがCさんを評価して、全人類をぐるっと回って、ZさんがAさんを評価する立場になる。ところが、Zさんの能力の方がAさんの能力より遥かに低い。このあり得ないなかで日常的に人はどのようにして人の能力を評価してきたのか、しているのか?
問題は、評価する側が評価しなければならない人やことに関する知識や能力がないか、あるいは評価し得るレベルの知識や能力がないときにどのようなことが起きるかにある。起きるであろうことが二通りある。評価する側が一般社会常識からいくつかの特定の領域においても高い能力を持っているケースとその反対のケース。前者のケースでは、どのような能力であれ、評価する側がそれなりに高い能力を持っていれば、それなりに納得のゆく評価になる可能性が高い。自分の專門分野(特定の領域)ではないことでも、一般社会常識と自分の專門分野における知識と能力から相手の能力を外挿し想像することで、大きな間違いを犯す可能性は少ない。
ところが、評価する側が一般社会常識の範疇での能力に劣り、なおかつ特定の專門領域においても見るべき知識や能力がない場合はどうなるか?ここでも起きる可能性は二通りだろう。
まず、真っ当な人から。自分では評価し得ないと自分の能力の限界を素直に認める人は、評価を放棄するか、あるいは盲目的に、他の多くの人達もこう言っているからということで評価するだろう。多くの人達が自覚してかせざるかにかからわらず時の流れにまかせて世論を形成する。風に流され、流行に流される以外の判断基準を持ち得ない人達。民主党が圧勝した選挙で民主党に投票した人達の多くがこの類の人達だろう。
真っ当でない人。自分の知識や能力の限界を自分で知らない人、知らなければ、知ろうとしなければならないことすら知らない人達。もっとも、この類のことは、誰しも完璧はあり得ないので程度の差でしかないのだが。 非常に貧しい知識と寂しい能力しかないにも拘らず、井の中の蛙。。。よろしく、夜郎自大、自分はすごいと信じきっている、あるいはそう虚勢を張らないと生きて行けない人達。その人達にかぎって、一般社会常識の面でも、長年の努力の末に得られる特定の領域での知識や能力にもみるものがない、あるいは限られている。その結果、人として恥ずべく思考形態に陥る可能性が高い。自分以外の人達の知識や能力も、その知識や能力を駆使してはじめて実施できる複雑で大変な仕事もなにもかも、彼の知識や能力と似たようなものか、それ以下と評価する。自分の田舎の、その一地方でのみ、よく知られているに過ぎない大学を東大より上だぐらいのことを平気で言いだしかねない。言っていることに整合性がなく、論理的に破綻していることに気がつくこともなく、常に人を自分以下と主張し続ける。
スイッチを押せば電灯がつく、蛇口を捻れば水が出る。この類の人達にしてみれば、どれも当たり前のことに過ぎない。その当たり前のことを当たり前のこととして提供するためにどれほどの人達がどれほどの知識と能力を持ってして日々努力をしているのかの見当がつかない。彼自身がしたことも、想像したことも、知識として得る習慣もないから想像できない。想像する能力すらないから、自分以外の人達の知識や能力は自分の知識や能力と似たようなものに過ぎないとしか想像できない。(ここで、想像できないではなく、考えられないという、“考える”という言葉を使うことに躊躇する。) 彼らの立派な夜郎自大のオツムでは、全てのことが、自分が体験してきた経験に基いた範囲、あるいはそのちょっと外側に広がった程度のこと、容易なこととしか考えられない。
まともな組織(企業)なのか、まともな社会なのか、はたまた国なのかは、変な言い方になるが、いかに夜郎自大が少ないか、あるいはその手の輩が闊歩していないかにかかっている。
2013/2/3