オヤジのアドバイス(改版1)

オヤジから技術屋として手に職をつければ、一生食いっぱぐれない。あるかないかわからない電気よりどこでもある機械の方がいいと言われて進むべき方向がなんとなく決まった。子供の気持ちを尊重してという気持ちがないこともなかったろうが、尊重すべき子供の方に自分の将来についてこれといった考えがなかった。社会経験もなければ何もない。雲を掴むような夢はあっても、それを生涯の仕事として追いかけるのかというと話は違う。夢は夢で片隅においておくまでの勇気しかなかった。自分に何らかのしっかりした考えがあれば別だが、なければオヤジの意見に従うしかない。
オヤジは手に職という観点からみれば最低限食ってゆくには困らない、ある意味では自由業の人−貧乏町医者だった。大正時代に新宿で生まれ育って、戦時中は満州で日本軍の軍医として、戦後は蒋介石の一軍閥を経て中国人民開放軍の軍医として貴重な経験してきた人だった。死の瀬戸際にいる人に対峙することを職業としてきた。戦友の多くを失い、自分自身何時も死と背中合わせだったとよく聞かされた。戦場で死ぬか残れるか、ちょっとした運のようなもので誰にも分からない。戦場で死んでいたとしてもちっともおかしかない。今の人生はオマケのようなもんだと言いながら、残りの“自分の“人生は愉しませて頂くという感じの生活を送っていた。
彼の社会観や人生観の骨格は中国での侵略する側としての戦争とその瓦解、人民開放軍の高級将校として中国社会での体験に基いて形成されていた。明確な左翼思想の持ち主で社会問題や経済問題に関する知識も豊富で定見をもっていた。それでも、日常生活は残りの人生を楽しむという、一見、二律背反する言動であることを分かった上でしていた人だった。
市役所の隣で内科として開業していたこともあって患者さんにはフツーのサラリーマンより町の色々な人たちの方が多かった。市の職員から日雇い労働者、土建や建築関係の人たち、宿場町だったころの往時から続く町のさまざまな商店のあるじと従業員、銀行員や証券マンなど金融系の人たち、坊主や神主から祈祷師、右から左までの議員連中とその支持者たち。中には何かのブローカーなのだろうが何を生業としているのか分からない人たちまでいた。医者と患者の関係を超えて、知り合い、飲み仲間、遊び仲間のような感じの人たちの誰かが家にいないことの方がめずらしかった。幅広い交友関係から様々な視点からみた社会問題や経済問題を聞きける立場にいた。今になって思えば、おぼろげに記憶に残っているオヤジの話しから、あの話は多分あの人から聞いたのを、息子に言ってきたんだろうと想像できた。
進学に際して何も知らない息子と生きるか死ぬかという修羅場をかいくぐってきて、いろいろな職業の人たちから様々な視点から見た社会全般の話を聞きうる立場のオヤジ。議論をしたところで結局は諭された。実体験に基づいた広範な知識の塊のように見得たオヤジだったが、残念なことに耳に痛い話をしてくれる、言動を批判してくれる人はいなかった。彼の人間関係の基本は否応なく、医者と患者さん、患者さんから見れば先生という規制から逃れられない。始まりからして対等ではない人間関係から得られる知識の限界、その上実体験に基いた確固たる−バイアスがかかった視点からしか知識を理解し得ない限界もあった。
オヤジの社会認識からでてきたアドバイスに従って機械工学を専攻して、機械の機械たる工作機械の技術屋を目指して就職した。就職して、聞かされてきた景色と目の前でものすごい勢いである方向に突き進んでいる景色の違いに驚いた。機械が機械では終わらない世界がそこにあった。人手をかけずに、人の生産性を向上すべく導入された電気制御がすでに機械を御していた。そこでは、まだはっきりとしたかたちにまで実用化されてはいなかったが、ぼんやりとした大きな雲のような技術革新が始まっていた。電気から電子へ、個々の半導体の活用からコンピュータのソフトウェアに技術開発の主戦場が移動していた。機械屋として社会にでて機械屋ではありようがなかった。制御屋に転向した。せざるを得なかった。
一般論としてだが、社会的にもそこそこ確立された年齢や立場にいる、それなりの人の話だからこそ、若い経験の限られた人たちには傾聴に値する。聞いたことがそのまま役に立つかもしれない。たとえ、そのままでは役に立たなにしても、何かの参考にはなるだろう。社会の先輩としてしっかりとした視点と理解、人としてのありようまで含めて、傾聴に値する話は多いと思う。しかし、そのような人たちであればあるほど、歴史としての経験や事実を基にして固まってしまった視点、たとえそれが有意の視点からだとしても、そこからしか今の社会を見れないし、理解もできない。当然のこととして、それは歴史的産物としての社会観であり、経験や知識に基づいた理解、そこから生まれた意見ででしかない。なかには歴史的産物から将来を冷徹に見通した意見もあるだろうが。。。
オヤジのアドバイスの経験から、若い人たちに自分の限られた経験に基いた話をさせて頂くときは、こちらの思いや意見が彼らをミスリードしないよう、細心の注意しなければと心がけている。前置きとして、また話の節々で、話しは過去の社会における歴史的な理解に基づいたことで、若い人たちが今直面していることになんら適合しない可能性がある、さらに彼らが遭遇するであろう将来の社会のおける問題や課題に対しては、ただの参考程度になれば幸いという程度のものでしかないことをお伝えすることにしていている。参考にされるのか、されないのかは彼らの判断に委ねられる。
見る価値のある過去もあるだろうが、将来が必ずしもその過去の延長線にあるわけではない。というより、あるはずがない。重みのある、意味のある過去であるがゆえに将来を見通そうとするとき、マイナスのバイアスとして作用することがある。
2015/3/3