錫メッキ

自分の專門分野やその周辺、あるいは経験してきたことや見聞きしてきたことから−知識の地図の上で−遠く離れた社会や業界の話を聞く度に、あまりに知らないことが多く、勉強不足であることを痛感させられる。それでも、お聞きしたことが社会常識というのか社会通念(多少保守的な)の延長線であるうちは、驚くこともなく、たとえ後で吐き出す可能性があるにせよ、少なくともその場ではとりあえず咀嚼できる。
ある人にとっては知ってて当然の知識、経験していて当たり前のことが、全く違うことを学び、経験してきた人には、そのような知識や経験が存在することすら思いもよらないこともある。思いもよらないことの存在を知って、そこから目を開かされることも多い。
思いもよらないというレベルではなく、知識の存在には何年も前から気がついていた。なんとしても、知らなければという思いはあったのだが、知り得る方策が見つからない。結果として、そのままできたことが結構多い。知り得ないまま時間だけが経過していった。時間の経過とともに知らなければと気がついてしまった、思ってしまったことを悔やむようなことになる。喉に引っかかったたちの悪い魚の骨のように忘れようにも忘れられない。思い出しては本や資料がないか、Webでなにかないかと探してみることを繰り返す。
社会や業界が加速的に複雑に交錯するようになってきたため、以前であれば関係することもなかった企業や人達がなんらかの連携を構築する必要に迫られることが増えた。
気にしてきたことを、あたかもその人にとってはフツーのこととして話す人に、運良くお会いできることがある。演題や集まりの名称からなにかきっかけが得られるのではないかと出かけるセミナーなどより、出かけるところを選ぶ、目のつけどころが稚拙なのだろうが、展示会の会場での出会いだったり、知り合いを通しての紹介だったりで、偶然の出会いのことの方が多い。
ちょっと会っただけだが、どうも長年探してきた知識のようなものを、どのていどのものなのかは判断できないが、もっているような気がする人に遭遇することがある。相手にとって、こっちも意味のある、価値のある知識や情報を持っていると思われなければ、よほどの人でなければ時間をさいてもらえない。
幸い、お互いに相手が何かを持っていると−正しくか間違ってかにかかわらず−想像すれば、改めて時間をとって。。。ということになる。二度目は、どちらかの事務所を訪問して会うことになる。お互いに相手から何かのきっかけやヒントを得ようとしているので、表面上は積極的な話し方になる。それでも、ついこの間、偶然出会っただけの関係、 お互いに相手を信用しきっている訳ではない。何をどこまで話していいものやら手探り状態から始まる。ここでお互いに、程度の差はあれ、もうちょっと突っ込んだ話をということになれば、次は手持ちの資料に手を加えて出してもいいものに加工して。。。という段階に進む。最初に出会った時に、相手をとんでもなく誤解してない限り、だいたいこのステップまでは進む。
その後、何回か会っているうちに、どうも最初に会った時に聞いた話、二度目に会って聞いた話。。。何時聞いても似たようなこと、それに尾ひれの付いた程度の話しかでてこないことに気がつくことが多い。自分の知識や経験から遠く離れた社会や業界の話しなので、最初に聞いた話がどれほどもものなのかの評価をする能力がない。評価のしようがないので、まずは聞いてみようという気持ちが強すぎて、大した話でもない、しばし与太話に過大な、一時的評価というより期待をしてしまうことがある。派手な言動に惑わされる歳でもないのはいいのだが、逆に派手さはないが“いぶし銀”のような価値がある、評価すべき人なのかと勝手に思ってしまうことがある。
二度、三度と話を聞いているうちに、その類のことであれば、知り合いの中にも評価できる人達がいることに気づくことも多い。回を重ねる度に、上っ面の業界(裏)情報や知っててたとしても居酒屋で一杯やりながらの世間話に毛の生えたような話しでしかないことに気づく。最初にあって、“いぶし銀”かと勝手に期待した方が悪かったことをおもい知らされる。何度か会って分かってみれば、それでも、何かのときに多少の役には立つかもしれない、多分使うことはないだろうが、情報網の片隅においておくのも悪かないという程度の安物の“錫メッキ”程度に人ででしかないことが多い。自然と会わなくなるまでは、特別会う理由がないにもかかわらず、たまに会って同じような話を繰り返すことになるが、会うたびに“錫メッキ”が剥げて、見たくもない地が露出してくる。地が露出してきていることに気がつかない安物の“錫メッキ”。
2013/6/23