“ぼっち”から孤高へ(改版1)

一般事務を任せていた派遣の女性が辞めた。離職理由は、そのとき聞いていた限りでは、結婚を契機に正社員から派遣になったが、経済的には恵まれているのでもっと自分の時間をとのことだった。ご本人から本音を聞き出すほど器用でもなし、そこまでの気もない。人は必ず動く。退職者がでるのはしょうがない。一般事務であれば、また派遣をお願いすればどうにでもなる。退社を気に留めていなかった。
ちょっと経ってから、以前の会社からの仕事仲間でまた一緒に仕事をしていた女性から、退職の原因を聞かされた。辞めたのはベテラン社員で部署の違いを超えて女性陣の総元締めのような人と反りが合わなかったからだと。正直驚いた。そして感知する能力に欠けた自分が情けなかった。二人共、日常的には何時も穏やかに話をしているように見えた。昼食もどちらかが外出でもしていない限り一緒に出かけていた。少なくとも表面的には問題があるようには見えなかった。ところが、辞めた女性は総元締めの女性と昼食を一緒にするとしばしば胃が痛くなることすらあったという。営業トップまでが総元締めの女性とは仕事のお願いの仕方を気にしなければならない社内の雰囲気からして分からないではないが、なぜ気が合うような素振りをして、胃が痛くなるのを我慢までして毎日のように昼食に一緒にでかけるのか?“ぼっち”を恐れてのことだろうが、なぜそこまで“ぼっち”を恐れるのか?
退職理由を教えてくれた女性は天賦の才にも恵まれた努力家で、何を目的として何をするかというロジックがはっきりしていれば、何を任せても間違いなく片付ける能力を持っていた。その能力を発揮していくつもの会社でやってきたという自信もあれば自負もある。揺るぎない自信と自負が「独立自尊」の志向を確かなものにしていた。如才のない言動のため気づかない人が多いが、本音のところで飲んでかかっている相手と些細な事で言い合うのは時間の無駄でしかない。大げさに言えば周囲の人たちを明らかに乗り越えてしまったところ、ちょっとした孤高にいた。些細なことでちょっとした衝突のようなことが起きたとしても、慌てることもないし、驚くなどということもない。問題をさっさと処理していつもの通り周囲の人たちから(彼女にとっての)健全な距離というか高みでやらなければならないことに集中する。
自分で勝手に思っているのではなく、知り合いや仕事での関係者のなかでも知的水準の高い人たちが認める能力、人間性まで含めて人として認められるものがあれば、“ぼっち”は孤高に転ずる。 “ぼっち”も孤高も、本質的には多数(派)から疎外された孤独な存在であることには変わりがない。ただ、その存在には天と地ほどの違いがある。孤高とは、孤独で地味な自己研鑚を日々続けることによってのみ近づき得るところのもので、日々の研鑽には意識して自らを孤独な“ぼっち”状態にしなければならない。
人から話を聞かせて頂く、人に話を聞いて頂く。。。人間としての社会生活の基本は人と人との関係から生まれる。その人と人との関係はお互いに自分としてのあり方があってはじめて有意義なものになる。自分としてのありかたは“ぼっち”を孤高へと引き上げる人の個人としての孤独な努力によってしか創り得ない。
相槌集団の“群れ”に混じってわいわいがやがややっていれば、その時々の“ぼっち”からは逃げられるかもしれないが、“ぼっち”の恐怖からは自由にはなれない。一人になったときに、一人の人間としてのありようが問われる。 俗世との関係を遮断して自己を高める修業を重ねる修業僧のようなことはできないが、相槌集団に過ぎない“群れ“から意識して一歩離れて自己研鑚、自己超克に努めるしかない。アインシュタインを引き合いに出してもしょうがないが、彼は、「灯台守になって物理学を考えたい。それは自由と静けさを与えるからだ。」とまで言い切った。
考えるということは孤独な作業の、しばしば出口の見えない暗闇での思考実験に他ならない。自分が自分であろうとすれば、多少なりとも矜持を胸にした孤高のような“ぼっち”を思うなら、この孤独(“ぼっち”)な作業は避けられない。孤独な日々の自己研鑚と自己超克の末に自分が自分でありえ、お互いに認め合える人間関係がある。そこには独立自尊の自分はあっても怖れる“ぼっち”はありえようがない。
2014/2/9