歴史に学ぶ

何かしようとするとき過去の事実をベースとして考えるのが当たり前のこととされてきた。前例のないことをしようとするとき、するために必要な能力があるかどうかを判断するにも、人や組織が今まで何をしてきたかという経歴(過去)を見て判断してきた。人材を募集している組織が応募してきた人の職務経歴とその職務経歴を生み出した環境‐学歴や在職した企業名などを有効な判断基準としてきたのはその好例だろう。
ちょっとした書店に行けば歴史に、過去の逸話や成功、失敗から学ぶことを売り物としたビジネス本らしきものがいくらでもある。それだけ需要‐読者がいるということなのだろう。三国志や孫子、マキャベリあたりまでならまだどことなく親近感もあるが、紀元前18世紀の中近東まで引き合いにだした本となると、そこまで行くかと気後れする。
何かの時に見聞きした、もう格言のようになった感のある歴史上の名言を聞くと確かな、否定しようのない説得力がある。孫子の兵法にある「彼を知り己を知れば百戦殆からず」になると、聞いたこともないというサラリーマンを見つけるのが難しいだろう。多くの人がこの名言に納得してきた。ここまでくると、もう、知られすぎた“常套句”の風格さえある。もっとも、記憶に間違いがなければ、本田宗一郎は、自書のなかで、この句を評して言い放った。“ほとんどの人が文盲であった時代に知り得る立場にいる人が優位に立てる。当たり前のことである。二千年以上前の状況の中で生まれた金言を、何を今更、後生大事に座右の銘としなきゃならないのだ。” 彼のように、今更なんだと思う人はどれほどいるのだろう。
孫子の兵法ほど知られてはいないだろうが、直截に過去に言及した金言もある。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」 これは、ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクの言葉らしい。こっちも孫子の兵法と同じようにあちらこちらでメシの種とされ手垢だらけになっている。これらの金言をキーフレーズにしたビジネ本から人生読本のようなものまである。多くの読者が読まれて納得されているのだろう。もともと、否定しようのない金言をベースとしているので、とんでもない勘違いでもするか、よほどの奇をてらうことでもしない限り、どの本を読んでも内容に大きな間違いや違いはありようがない。フツーの人がフツーに読めば間違いなく正しいと、聞けば必ず納得させられる。
ちょっと違う視点からの格言で「歴史は繰り返す」とも言い続けられてきた。この視点については、多くの人達が歴史を遡って史実を検証し、納得してきた。この格言、正しいと考えられてきたようだが、部分的にしか正しくない。似たようなことは起きてきたし、これからも起きるだろう。しかし、一卵性双生児以外に同じDNAを持った人が存在せず、全ての人が違うのと同じように歴史上全く同じことが繰り返し起きることはない。似ていたとしても必ず違う。歴史が、同じことをそれほど頻繁に繰り返すのであれば、歴史を学べば将来を予測し、何をどのようになすべきか、何が最も妥当な結論かなどと考え、悩むことはない。歴史が何をなすべきかを教えてくれる、あるいは少なくとも明示的に示唆してくるはずだ。
歴史は繰り返さない。似たことが起きたとしても必ず異なる。歴史上の、否定のしようのない、納得させられてしまういくつもの金言が言うところの視点や考え方などをいくら完璧に理解し消化吸収しても、そこから将来のこと、今からのことを予測し、検討して決断することはできない。ちょっと考えれば分かるはずだ。歴史、すなわち個人なり、組織なりの能力、その能力を形成してきた職務経験などは、将来に向けて明日なにをなすべきかを決めない。それらは、明日何をしようと思っても、してもしようのない、“能力と環境条件の限界”を暗示していているに過ぎない。
歴史から真摯に学ぶまっとうな姿勢が、人や組織にも能力と環境条件の限界−もしかしたら壊り得るかもしれない、壊らなければならない限界を絶対的なものとして誤解し、受け入れることを当然としかねないことを知らなければ、歴史からは学べない。こんな学び方なら、学ばない方がいいかもしれない。歴史から学ぶということは、学ぶことの危険性を知ったうえでのことでなければならない。
将来のために今日何をすべきかの限界、打ち破らなければならない限界を示すのが歴史−過去で、なすべきことを決めるのは明日を、将来を思い描く人に与えられた能力のはずだ。
後ろを振り向いて、反省もするし後悔もする。人の成功や失敗の歴史からも多くの教訓を得られる。でもそれが何をすべきかを決める際の足かせに、言い訳にしたら先がない。先を見据えて、こうありたい、こうしたい、こうじゃなきゃという気持ちが明日に向かって今日なすべきとことを決める。決めるのは人であって、歴史じゃない。