卵が先か鶏が先か

“卵が先か鶏が先か?”は、原因と結果の循環−原因が結果を招き、その結果が原因になる−をうまく言い表す言い草として昔から使われてきた。どっちが先か?以前から自明の理と考えてきた。あらためてWebで調べてみたら、驚くことにイギリスの高名な学者連中が科学的にどっちが先かを究明してくれたとの記載があった。彼らの結論から言うと、鶏が先だそうだ。あるWebのページには、鶏の卵巣にあるovocleidin-17と呼ばれるタンパク質がないと卵の殻を形成できないので、鶏が先と結論付けたと書かれていた。
高名な学者連中のしっかりした科学分析の賜物、巷のオヤジが疑問を投げかける類のものではないのは百も承知で、おい、本当かよと言いたい。卵巣にあるタンパク質(ovocleidin-17)がないと殻を形成できないため卵はないまではいいんだが、そのタンパク質を作るDNAなりなんなりはどこからきたんだ?まさか生物の進化も何も関係なく、卵巣でそのタンパク質を作れるメスの鶏がどこからともなくヒョンと現れて、そのタンパク質を使って卵を生んだなんて言うんじゃないだろうな?これじゃ、どの神でもいいが、神が神として、成人として、忽然と現れたというのに似てないか?どこか宗教じみてるような気がしてならない?
そもそも鶏が鶏になったのは人が鶏の原種を家禽化したのが始まりだろう。それも人の都合のいいように交配して家禽として作り上げた“鶏”だ。卵と鶏のどっちが先かを考えれば、鶏の原種の卵と原種鶏のどっちが先かという話に遡る。こうなると遡って、遡って鳥類の始まりまで行く事になる。始祖鳥?でもそこでも終わらない。鳥類の元になった種は成獣が先立ったのか卵が先立ったのかの話になる。
ここまで考えると多少見えてくる。卵での繁殖は鶏に至って始めてなされたことじゃない。鳥の祖先だと言われている爬虫類は言うにおよばず魚類から無脊椎動物。。。だって卵で繁殖してきた。卵は鶏が鶏になる前どころか鳥類の始まり、その種のもっと先まで遡った種でも繁殖の手段だった。どう考えても、卵が先で鶏が後、鶏が鶏になる前、人によって鶏にされる前に卵はあったはずという結論以外にあり得ない。
もっとも、この“卵が先か鶏が先か?”という言い草、そこまで考えた上で使っている人には会ったことがない。なんとなく言われてきたのでというか、先輩からでも拾ったのだろう、昔お仕えしたある社長が、状況がごちゃごちゃで彼の能力では付いて来れなくなって、それもこっちに非がある問題で矢面に立たされると、ごまかしの逃げ口上の枕詞のように使っていた。この言い草を聞く度に、またいつものごまかしだと思った。ごまかされる方もバカじゃない。 彼の逃げ口上に呆れて、ごまかしをごまかしとして分かっていて、これ以上突っ込んでも何の解決にもならないことを悟ってのことだろう、いつの間にやら、どうでもいい世間話になって、後は実務部隊同士で解決しましょうという、合意?で終わった。これは無能が保身で責任放棄した以外のなにものでもない。お互いの実務部隊ではどうにもならなくなって上に上がらざるを得なかった話じゃないか。親子丼が好きとは聞いてなかったが、卵と鶏が無能でも使える幕引きのツールだった。
腹芸といえば腹芸とも言えなくもないが、どのみち実のない人同士のちゃちな政治的三文芝居だ。実務部隊の腹心がいくらしっかりした、中学生なら丸暗記すらできる分かりやすいシナリオを用意してもどうにもならない。散々ブリーフィングして、ときにはリハーサルまでしても、鶏の頭ほどしかないオツムではシナリオの背景を理解できない。数行のうちに脱線して何が何だか分からなくなる。分からなくなってでてくるのが卵と鶏の喩えだ。
若い時には控え目にしなければという自制が強かった。今でもそれなりに持ちあわせているつもりだが、もし、ろくに考えもせずに、卵と鶏の喩えを使う痴れ者に遭遇したら、何を卵に喩えて、何を鶏に喩えているのか聞いてみたい。まともに答えられるのはいないだろう。喩えを使って、何を何に喩えているのか分からなかったら、一体何を何に喩えての話なのだろう?その程度の知的水準の人と言ってしまえばそれまでだが、答えられずに慌てるか、権力を振り回すかのいずれかの反応を示すと期待している。答える能力や見識がある人であれば、そもそもこのバカな喩えを使わない。