どうも、お疲れさま、思います(改版1)

高専を卒業して入社した工作機械メーカで、思想問題から四年目には技術研究所から輸出専門の子会社に左遷された。子会社は海外営業業務を別会社にしたところで、総勢四十名ほどの小さな所帯だった。そこにアシスタントの女性も含めて十五人ぐらいの営業部があった。課長以下三人しかいない技術課には毎日のように営業マンから技術に関するさまざまな課題が持ち込まれた。そこで初めて営業マンの仕事ぶりを垣間見て、それが営業の仕事だと思っていた。
三十半ばでアメリカの会社の日本支社に雇われて、初めて日本企業の営業マンの文化の洗礼をうけた。それは子会社でみてきたものとは全く違うものだった。子会社では、営業マンは海外支社や代理店からの商談を事務的に扱うだけで、営業というより業務に近かった。

二度のオイルショックでアメリカの自動車産業をはじめとする伝統的な製造業の衰退が誰の目にもはっきりしてきた。それに引き替え日本の製造業の躍進は留まるところをしらないのではないか、と多くのアメリカ人にはみえていた。そこでそれまで代理店に任せっぱなしにしてきた日本市場をみずから開拓しなればと、アメリカの制御機器メーカが八十年代初頭に日本支社を開設した。
随分変わったとは思うが、アメリカ人の知識不足には目を覆いたくなるものがある。今でも日本と韓国や中国を判別できない人は多いし、列島だということからフィリピンと間違える人もいる。その一例といってもいいと思うが、伝統的な製造業が主要顧客という視点から、日本支社の本社を大阪に置いた。数年後、自動車電装部品メーカと合弁にしたときに、東京に本社を移転してやっと体制づくりが緒に就きはじめた。

急遽ヘッドハンターをつかって、営業と営業活動に付帯する技術サポート要員をかき集めた。営業部隊は商社や代理店から流れてきた人たちで構成されていた。メーカの営業マンは知っている限りでは一人しかいなかった。技術サポートは日本の同業からの転職組だった。商社や代理店からの人たちとメーカの技術屋たちの間には、どうにも組み合わせようのない文化的な違いがあった。

大手総合商社の窓際族だった本部長クラスの人たちは、どっしり構えていると言えないこともないが、実務には手をだせないお飾りのような存在だった。課長以下には専門商社出身の人が多く、個性が強いとうよりアクが強すぎる人が何人もいた。極めつけは、工作機械専門の商社から流れてきた人で、今で言うパワハラ、セクハラは日常茶飯事。新入社員を居酒屋に連れて行ってはゴタクをたれて、麻雀に誘っては小遣いを稼いでいた。
一見どこでも飛び込んでいくアメリカ人好みのアグレッシブな営業スタイルにみえるが、技術的なことには興味のない人で、はったりと口先三寸の口上でごまかし営業しかできなかった。英語どころか日本語も怪しい。専門商社として旋盤やフライス盤を町工場のオヤジさんに押し込むとのは訳が違う。日本を代表する自動車や精密機械メーカにコンピュータシステムの説明などできるわけがない。

事務系の新卒相手なら昔取った杵柄でおどかしも効くが、工学部出の新卒にはいくらもしないうちに相手にされなくなった。四十代半ばにして、培ってきたものといえば、ささやかな工作機械業界の勢力図と度を越えた金への執着だった。外資にいってもどぶ板鳴らした営業の癖が抜けない。電話でも顧客にいっても、最初に口からでるのは決まって「どうもどうも」だった。何を訊かれたところで、価格以外は分からない。その価格も営業マンに許された範囲内の調整しかできない。それ以上の価格交渉をアメリカ本社と英語でやり合う能力はない。
どこに行っても、よくある営業マンの口癖「どうもどうも」と「お世話になってます」でなにもない。あったのは「どうもどうも」についてくる狡さと卑しさしか感じさせない意味のない笑いだけだった。アメリカからの駐在員が、その営業スタイルを称して「Used car salesman」と呼んでいた。

もうすぐ五十というときに、画像処理専用のLED照明のメーカのアメリカ支社の立て直しによばれた。首都圏以外の会社ははじめてだった。京都の本社で、それまで接したことのない文化的な違いに新鮮な驚きの連続だった。工作機械の技術屋になりそこなったとはいえ技術屋の端くれ、製鉄やタイヤ製造などの大きな機械の制御システムビジネスが長かったこともあって、技術が意味していることの範囲が狭い。半田ごて片手にLED素子を基盤に搭載していく作業は技能の範疇で、英語でいえばせいぜいTechnicianの領分でしかない。それを社内でよく耳にした科学(技術)と混同したら、何が何だか分からなくなる。しばし言葉の定義のズレに悩まされた。若い会社だということもあってだろうが、二十代の従業員が多かった。

弱電ということなのだろうが、下駄箱の前のスノコに乗って、靴をスリッパに履き替えるのには驚いた。ロッカールームで安全靴に履き替えることはあっても、スリッパはない。古い考えだとは思えないのだが、スリッパは自宅でくつろぐときに履くもので、報酬を頂戴するプロとしての仕事をするときは動きやすい靴を履かなければいけない。スリッパに抵抗があって、スニーカを上履きとしていた。
下駄箱で混みあうのがいやで早めに出社していたが、出社してきた人たちと出会うことがある。

何を考えることもなく、定形の挨拶が口からでた。「おはようございます」
返ってきたのは、「ごくろうさまです」だった。

朝っぱらから「ごくろうさまです」はないだろう。おもわず顔をみてしまった。昨日の晩、なにか頑張ったつもりもないし、お前は疲れるようなこと何かしたのかと聞いてみたくなる。
三年半お世話になったが、「おはようございます」は聞いたことがない。誰もかれもが、朝の挨拶は「ごくろうさまです」で、それが標準というのか常識だと思っている。それどころか、メールまで「ごくろうさまです」から始まっているのには正直驚いた。もう二十年近くも前のことだが、数か月前にもらったメールの書き出しが「ごくろうさまです」だった。まだまだ若いということなのかと思ったが、もうとっくに五十を過ぎている。
IT業界の若い人に「ごくろうさまです」について尋いたら、業界や仕事によって違うだろけどという前置きをしたうえで、すくなくともIT業界では「ごくろうさまです」と「お世話になってます」が標準的というのか使い回しのきく枕詞になっていると言っていた。
「おつかれさまです」には「どうもどうも」に付いて回るいやらしさもないし、朝でも晩でもいつでも使える次の世代の慣用句になったということなのかもしれない。

「どうもどうも」に閉口して、「おつかれさまです」に世代の違い?を感じさせられてきたが、どちらも個人の、たとえ仕事に関係したとしても、一私人の言葉でしかない。最近、テレビやWebで動画を見ていて聞く、蛇足としか思えない接尾句にあ然としている。お笑い番組ではない、キーステーションのニュースもどきの番組でアナウンサー?が、「……と思います」と言っている。

「みなさんと一緒に見て行きたいと思います」「ご紹介していきたいと思います」「お伺いしていきたいと思います」「考えていきたいと思います」……

家族が観ているだけでついているテレビ、見ていなくても声は聞こえてくる。最初は、あれ、なんだその「思います」はと思ったが、いつでもどこでも接尾辞として「思います」がついている。当初は、自己主張を出さないように、柔らかい語調にしたいが故の工夫だったのかもしれないが、いつの間にやら、万能接尾語になった感がある。膠着語の柔軟性の活用といえないこともないが、それでなくても語幹につづく接尾辞が煩雑な日本語に、蛇足でしかない余計な言葉を付けるのは避けた方がいいと思うのだが、どうなんだろう。

余計な言葉が多くなればなるほど、聞き間違いの可能性が高くなる。ましてやさしたる意味のない言葉は、政治家や官僚の答弁にみるように、ごまかしの道具になりかねない。
ときには意識して曖昧さを残した言葉や言い廻しを使うこともあるが、真意を伝えることを優先してできるだけ誤解されないよう、平易な言葉と簡素な文章を心がけている。
あたりまえのことでしかないと思うのだが、マスコミで社の顔として表にでる立場にある人たちはどう考えているんだろう。
2021/7/31