デジタル腕時計にして気がついた(改版1)

四十代のなかごろから、時計を買い替えると仕事が変るというジンクスのようなものがあった。一度目は気にも留めなかったが、二度目は買い替えた直後に仕事の話が舞い込んできたこともあって、気になりだした。どう考えても関係などあるわけがない。でも、ただの偶然の一致にしても二度あったということは三度目もあるかもしれない。そろそろ時計を替えてみるかなんてことまで考えてしまった。

腕時計はよくできていて、何かの拍子でどこかに強く当ててしまったり、水の中に落として拾い上げるまでにかなりの時間がかかりでもしないかぎり壊れやしない。外面が傷だらけになったところで、使うぶんには何の支障もない。ただあまりにみすぼらしくなってくると、そろそろ替え時かと思いだす。
あれこれ使って一度軽い時計になれてしまうと、自動巻きや大仰だったものは重くて使う気になれない。若いときに二ヶ月分近くの月給をはたいて買ったグランドセイコーなんか、たまに引っ張り出してしてみれば、一日中左手の手かせの重さが気になってしょうがない。クオーツの精度に慣れてしまったから、ひと月もすれば誤差が気になりだす。そんなこんなで、ほとんど机の肥やしになっていた。

軽くて用をたせばいいだけだから、大したものは買わない。隠匿した会社の粗品のおもちゃのような時計をしていたこともある。いい歳をしてそんな時計をと思われたのだろう、一緒に仕事をしていた時計メーカの部長と課長から、なんどかうちの試供品に変えませんかいわれたこともある。親切に感謝しながらも、いい歳をしたオヤジのこのおもちゃの時計が、アメリカの会社のマネージャあたりの流行りなんですよと丁重にお断りした。日本では言い訳としか受け取られないだろうが、見た限りではVPにはローレックスらしいが、そこから二、三段下がったところの技術系のディレクターやマネージャの何人もが粗品の時計をしていた。

富山にいった帰り、何をするわけでもなく機内雑誌をパラパラとめくっていたら、ワールドカップの記念時計が目にはいった。有機ELで英数字で表示した、一般にデジタル時計といわれるものだった。もう普通の腕時計はみんな水晶発振に半導体を組み合わせたデジタル時計なのに、機械式のように針の動きで時刻を示すものをアナログ時計と呼んで、数字と文字で表示するものをデジタル時計と呼んでいる。針付き、針なしというのも通りが悪いし、いい呼び名が思いうかばない。ここでは巷の呼び名をそのまま使うことにする。

記念時計はセイコーがWIREDとコラボレーションしたものだと書いてあった。時計としての機能や性能はある意味限界まででき上っていて、売れるか売れないかは見てくれて決まることが多い。WIREDなんて知らなかったし、デザイン会社なんかどうでもいい。セイコーならとんでもないものを出してくるはずがないという信頼がある。
宣伝でみた長方形に英文字の表示には、それまで使っていた時計とは違う新鮮さがあった。ところが、届いた時計を手にして失敗したと悔やんだ。なんでと思うほど重い。節電設計なのだろう、通常画面は真っ暗で何もみえない。アナログ時計なら左手をちょっと上にあげればいいだけなのに、デジタル時計で時刻をみるには、右手の人差し指でボタンを押さなければならない。なんという手間と思いながらも、若返ったようなスタイルは気にいっていた。

使い始めて、アナログとデジタルでは時刻をみるというのか判読する生理活動に違いがあることに気がついた。例をあげたほうがわかりやすい。アナログ時計では十七分なのか十八分なのか判読に迷うことがある。なにかのことで分針が一分近くずれていることに気がついても、調整するのは分針までで、都合よく時報があるわけじゃないから、秒針はめったに調整しない。そのせいで、秒針が十二時の位置になったときに分針が六十分の印のどれかの上にピッタリくることはない。分針と秒針の位置関係は必ずといっていいほどズレている。そこから十七分かもしれないし十八分かもしれないという迷いが生じる。デジタルなら17か18のいずれかが表示されていて、17か18で迷いようがない。誤差が表にでないから、どっちかと気を病むようなことにはならない。デジタルのほうが余計なことを考えないですむから、精神衛生上はいい。

ところが、デジタル時計にはアナログ時計しか使ったことのない人間にはちょっと耐えがたい面倒なことがある。アナログではなんということもなく処理していた時間の勘定がデジタルになったとたん、算数の引き算になってしまう。
たとえば、山手線であと二駅、三十分に待ち合わせている駅の改札まで、あと六分ぐらいかかりそうだというとき、アナログなら五分刻みの文字盤から残り時間を確認する。ぱっと一目で五分刻みの印をみて、二十分の印まで印にしてあと二つ、十分あることを一瞬にして見てとれる。電車を降りて改札まで六分かかっても七分かかってもお釣りがくる。
ところが、デジタル時計では三十から十七、あるいは十八を引く計算が必要になる。

世の中白黒はっきりしたことばかりじゃないだろうし、デジタルのように見せられたものを疑うこともなく真に受けてっても怖いじゃないかという気もある。
きっかりした数字ではっきり示してくれるデジタル、一目で時間の見当がつくアナログ。一長一短どっちもどっちだが、右手がふさがっていることもあるし、左手をあげればのアナログのほうが使いやすい。

ニューヨークに駐在していたとき、ひどいインフルエンザにかかって寝込んだことがある。親切な大家が医者に連れて行ってくれて体温計を貸してくれた。ベッドに寝たまま体温を測るのだが、表示は摂氏。華氏に直すにはちょっとした計算をしなければならない。換算式は下記の通り。

摂氏=(華氏―32)x5/9

引く32まではいいが、5/9の暗算ができない。測るたびに電卓が面倒で32を引いた答えを1/2、半分にした。測るたびに華氏は違っても、暗算した結果は同じだった。

誰も面倒な計算なんかしたくないし、もって回った言い方をされれば分かるものも分からない。ましてや高尚な理屈をこね回したエライさんの言い草なんか、分かる人には分かるだけで、巷でその日その日の生活に追われている人たちは、ことの真偽より一目でわかる方に流れてしまう。これも世の常人の常、好き嫌いの話じゃない。いいの悪いのと言いつのったところで何がどうなるわけでもない。そこに空気があるのと同じように受け入れるしかないないと思うのは、暗算の苦手な横着な愚人だからなのか?
2021/8/7