トルコ語を習得する実験を始めた(改版1)

ちょっと遠回りになるが、まずは英語の話から。
体系だった英語教育を受けたのは中学校の三年間だけだった。なんでそんな面倒なものをという気持ちもあって、受験まであとひと月になるまで勉強という勉強はしなかった。高専では専門科目で忙しすぎて、英語なんか誰もまともに勉強などしやしない。文系の不可なんか、余程のことでもない限りもらうこともないし、二つや三つあったところで進級には差し支えない。単位制じゃないから、進級してしまえばもらった不可は全部チャラになる。

あと一月もすれば二十五歳というとき、日本に置いておくと煩いからとニューヨークの孫会社に島流しにされた。七十七年、まだまだ私生活はさしおいてが当たり前の時代、左遷辞令もらって一週間で赴任した。このときほど「後悔先に立たず」を思ったことはなかった。
右も左も分からないところで、YesとNoに毛の生えたような英語から始まって、習うより慣れろだった。仕事と生活の必要にせまられて英語を使っていれば、いつのまにやらなんとかやっていく術が身についてくる。体で拾った程度でしかないが、今でも重宝に使っている。それは使い続けているだけで、勉強しているわけじゃない。ましてや日本の学校教育でいう勉強なんか、金もらってもする気にはなれない。時間ばかりかかって成果が上りそうな感じがないから、いくらもしないうちに、あったはずの勉強しなきゃという気持ちが萎えて、いつのまにか消えてなくなってしまう。

何の必要も感じることもなく形ながらの勉強などしたところで、これといった成果などあがるわけがない。それは英語だけじゃない。なんにしても仕事や生活で、ときには趣味のようなもので必要にならなければ、面倒なことなどしようとは思わない。いざ必要となれば、いやでも自分なりの工夫も考える。なにが必要なのかがはっきりすれば、工夫のしようもある。一口に英語といっても、必要とされるものは人様々、当然のこととして、すべての人にこれといった決まった習得の仕方があるわけじゃない。個人の拙い経験からだが、三年半ほど技術翻訳で禄を食んでいたとき、求められたのは関係する技術領域を日本語と英語で理解することだった。かなり専門的な知識が必要とされるもので、文系の英語教育はほとんどなんの役にもたたない。会話する能力はあるにこしたことはないが、なくてもなにも困らない。

昨年の春さきから新型コロナウイルスのせいで外出しにくくなった。すぐそこに池袋の雑踏があるのに、感染するかもしれないと思うと、ほっつき歩くわけにもいかない。しょうがないから図書館で本を借りてきては読んでいたが、気が持たない。どうしたものかとネットで海外の新聞を読み始めた。仕事と生活で使ってきただけの英語で、知識も語彙もしれている。日々の記事までならまだしも、高尚な社説となると辞書を引き引きなる。分かっているつもりでも、気になる単語は意味の確認から使い方までと辞書をながめまわすが、ときには背景をとWikipediaを見にいくこともある。そこで日本語の説明にがっかりして、英語で読む羽目になることも多い。それでもEconomistを十年以上購読してきたからか、多少なりとも慣れがあって、斜め読みしても大まかには分かる。

ネットで読み始めて半年ほど、読むのに慣れてきたものの、長時間となると辛い。なんとかならないかと読み上げソフトを使ってみた。ちょうどラジオを聴く感じで、もうストレスというストレスを感じることもなくなった。英語を母語としない人たち向けのものだから、標準の読み上げ速度では遅くて時間がもったいない。三月ほどはx2で聴いていたが、今はx3で聴いている。まあ普通のニュースの速さだろうが、合成音声で感情が入っていないから、さしたる苦もなくついていける。最近は「ながら族」(死語?)よろしく、関係のないファイルの整理をしながらなんてこともあれば筋トレをしていることもある。古希を過ぎても慣れがすすむのを実感して、ちょっと驚いている。年もいって中古を通り越して、あと何年かすれば焼き場行きの脳みそが、多少なりとも活性化さてきたのかもしれない。

人工知能(AI)が気になっていくつかの報告書のようなものを読んで、脳の生理活動をちょっとかじっておくかと、図書館で分かりやすい入門書――講談社のブルーバックス『記憶力を強くする』池谷裕二著を借りてきた。
「強くする」という俗な題に惑わされて手にする人も多そうだが、残念ながら即の効果の話しはでてこない。中身は情報を整理して記憶して、記憶した情報をひき出す脳の生理活動を分かりやすく説明したものだった。
その生理活動を著者が次のように要約している。
「動物の生命現象の枢要であるシナプスもまた、物理化学的な機械にほかなりません。考えたり、悩んだり、こうして複雑な人の行動も、結局は脳に備わった精巧な機械が行っているのです。皆さんが、いまこの本を読んで何を感じているかは人それぞれでしょうが、こうして本を読む行為や、それによって感じたり考えたりすることさえも、結局は脳のなかの『化学反応』です」
「生命という不可思議な現象を研究すればするほど、見えてくる答えは、生物とは物理化学の法則に素直にしたがう構造物である」

受験勉強にはたいして役にたちそうもないが、記憶力は記憶しなければならない外部からの刺激を受ければ受けるほど強化されるという説明は、ひと筋の明かりのようにみえた。
腰は渋いし、髪の毛はレアメタルなみの貴重品と化して、ボケも加速するんじゃないかと気にしていたころに、英語の聞き取りはよくなっているような気がしていた。そこにこの朗報。ちょっと何かないかと考えだした。

そこから、トルコ語の独習実験でもしてみるかという気になった。
残りの時間も少なくなってきているのに、いまさらトルコ語? 知っている言葉といえば、イスタンブールにアンカラ、アナトリア、ケバブにヨーグルトぐらいで、中学に入って強制された英語の勉強のスタート地点がはるか上に見える、もうこれ以下はないとうほど低い。いくらやったところで英語のように使うこともないし、ちょっと使えるようになったところで何があるわけでもない。

四十をまわったころ、仕事で将来必要になるかもしれないと、家庭教師まで雇ってハングルにちょっかいだしたことがある。中国語も家庭教師を雇って、土曜日や夜の会話教室に通って三年かけて教科書は中級のものをつかうまでになったが、ものにならなかった。その程度では、どこにいっても今や世界の共通語の感のある英語になってしまう。いまさら、トルコ語?どう考えても使えるようになるとは思えない。それでも、使い物になりようのない英語の学校教育へのあてつけ半分、自己流でやってみれば、なにか気がつくこともあるかもしれない。もし、ほんのちょっとでもやっててよかったという場に遭遇したら、おい文科省と先生方、「実用英語技能検定」なんてことまでして、いまや「TOIEC」なっているのをなんと説明するんですかねって気もある。

1) 目的は二つ。自己流のやりかたと工夫で、使いもしない、手持ちの知識が皆無にちかい外国語をどの程度まで習得できるものなのか実験する。
そして、できれば使う機会を探したくなるレベルまで習得したい。

2) 頑張ると長続きしないから、根は詰めない。
根を詰めると疲れてイヤになって止めてしまうことになる。語学の才能なんかなくても続けていれば、それなりに使えるようにはなる。ただ根気がすり減りすぎないように注意しながら、続け続ける根気がいる。

3) 中学までしか知らないが、日本で一般的になっている英語教育というのか勉強方法はとらない。目でみて耳から聞いて口から出す。読み書きはとうめんは補助。文法は最低限をおさえたら、あとは必要になったときに補強する。

4) 金はかけない。インターネットに使いやすい教材がいくらでもある。特に英語からトルコ語へなら、入門から初級講座はどれにしようか迷うほど多い。
辞書や本は買わない。辞書はWebのものを使う。本は、必要になったら図書館で借りて来る。すでに二冊借りたが、内容はそれなりで、千いくらも払う気はしない。Webの方がはるかに豊富で優れている。

5) 人と話してという対人実験の目途はない。多少なりともできるような感じのレベルまでいきそうだったら、そのとき考えればいい。そんな場もWebにありそうだ。

まずは耳と口。単語や文章を紙に書いて、目で追って耳から聞いて口から出す。ちょっと初めてみたが、初めて耳にする言葉で、なかなか覚えられない。ざるに水を流し続ければ、そのうち水垢が溜まるかもしれないとうやりかたしか、今は思いつかない。慣れで馴れずしのようにと思っている。
多少なりとも緊張するものがあれば、ボケていく一方の脳を刺激できるだろう。いいことばかりじゃないかとは思いはするが、英語では感じることもなくなってしまったストレスに負けそうになる。

いくらやっても身につきそうな気がしない。それでも続けていればとやってきたら、Webで見つけた入門書も終わりが見えてきた。四月に一課からはじめて半年かけてニ八課まできた。今年中に三十課まで終われそうだ。そろそろ別の入門書をとWebで探しだした。日本語のトルコ語教材はいくらもないが、英語からだとどれにするかと迷うほどある。いくつか試しはじめているが、なんでこんな面倒なことをしているんだという気もする。それでも年末にはそっちに乗り換えようと考えている。まだまだVery beginner、来年の夏にはBeginnerのレベルに行きつければいいなと思っている。
振り返ってみれば、私生活でも仕事でも上手く行かなくてダメもと、こうすればどうだろうと実験のようなことを繰り返してきたように思えてならない。
2021/8/20