分かりませんと言った方が(改版)

昔のことで記憶があやふやだが、小学校の高学年から中学校のとき毎年色盲テストを受けていた。検査名を聞いていたわけではないから、色盲テストと呼んでいいのか分からない。話を進める前に検査名を確認しておかなければと、Google Chromeで「色盲テスト」と入力して検索したら、「色覚テスト」がでてきた。いくつかの色覚テストのサイトをみたら、受けていた色盲テストの説明が載っていた。想像でしかないが、色盲が差別用語ということで、今は色覚テストと呼んでいるのだろう。ここでは色盲テストではなく色覚テストを使うことにする。

テストには、直径二十センチほどの丸い厚紙のカードが何種類か用意されていた。それぞれのカードには背景と一桁か二桁の数字が印刷されていた。印刷は目の粗い点描画のようで背景と数字の色相が微妙に違っていた。その違いが色覚に問題のある人には判別しにくい。なかには色調に濃淡差のある意地悪なカードもあって、正常な人は気がつかないのに、色覚に問題のある人のなかには数字に見えてしまう人もいるらしい。

テストといっても何をするわけでもない。椅子に座って目の前にだされたカードをみて、見える数字を言うだけで何分もかからない。確か中学のときだったと思うが、いつものように出されたカードの数字を緩みきった声で、例えばだが「6」、「25」、「8」、「45」、「97」と言っていった。そして「13」と言ったとき、係の人が声にはださないが「うっ」と反応した。思わず「えっ」と引いて、読めてはいけないカードだと察して、しっかりした声で「わかりません」と言い直した。無意識に瞬きしてカードを見直したが、どうみても「13」に見える。見えない方がおかしい。なにかの間違いじゃないかと係の人をちらっとみたが、「わかりません」にほっとしているように見えた。他の数字は憶えていないが、「13」だけは憶えている。視力も当時は一・二だったし、色覚に問題があるなど想像したこともなかった。未だにあの「13」は何なんだったのかと思っている。

色覚と似たようなことが晦渋で難解な文章の判読にもいえるような気がする。普通の、といっても何が普通なのか定義が難しいが、人並みの教育を受け、それなりの社会常識を持ち合わせた人なら、多少の不安があるにせよ理解できるはずまでならいいが、ときにはこれはもう判読困難と言ってしまっていい文章に出会うことがある。一言で言ってしまえば、悪文ということになるのだが、なんとか読み続けられる文章が続いて、さすがにもうこれはという悪文がでてくるわけではない。本一冊最初から最後まで悪文が並んでいてどうにもならない。数ページで放りだした本もある。

ところがそんな悪文や悪文もどきにさらされ続けると悪文に対する免疫でもできてくるのか、しばし何をいわんとしているのかおおよその見当をつけられるようになってくる。それが自分の専門領域から遠くはなれた分野のことで、最低限の基礎知識すら持ち合わせていないのに、なぜなのか。分かるはずがない、分かることのほうが問題なんじゃないか?まるで色覚テストの「13」のような気がしてくる。
分かったような気になっているのはおかしい。何が分かっているのかと自分に問い質すようなことをしてみてもはっきりしない。それどころか、何これという悪文でも、関連したことをWebで調べて、もうちょっと分かり易い言葉を使って大意を損ねることなく書き換えられるんじゃないかと思うことすらある。

そんななんともおかしなことを思ってしまった例を一つ挙げておく。
『恋文から論文まで』丸谷才一編に収録された一篇で、高橋義孝が「国文学者の悪文」のなかで例として挙げている。
「なお憶良におけるこのような第二の性格は、その後の古典文学における散文的なもろもろのジャンルが、とかく、和歌的な抒情主義や浪漫主義を払拭し得ず、その意味でのリアリズムに徹底し得なかった事実に対応することによって、よかれあしかれそのユニークな点を一層たしかめることが出来るであろう」
この文の文脈は当然「第二の性格は――によって、――点を――たしかめることが出来る」であろう。しかし、「第二の性格は、――点をたしかめることが出来る」とは、一体どういうことなのか。「ことによって」のかかりも、はなはだ不明瞭である。とにかくこの一文は文意はなはだ暢達ではない。つまりこの文章は、何をいおうとしているのか、わからない。悪文といっても一向に差支えない。

「悪文といっても一向に差支えない」その通りだと思う。ところが学者や研究者、政治家や法律の専門家の手になる、とくに人文系の学術書の多くが悪文で溢れている。そんな悪文を規範とした勉強は、悪文と格闘して悪文に慣れ、悪文を書く術を習得して、自らも悪文を創作してゆくことになるんじゃないかと怖くなるが、どうなんだろう?
一つはっきり言えることがある。巷の普通の民間企業で、通りの悪い、「悪文といっても一向に差支えない」書類を書いて提出したら、どうなんだろう?では済まない。叱責されるだろうし、使いものにならない人材として閑職に追いやられ、とおからずレイオフの対象にされる。

どうなんだろうは他人事だが、悪文を読んで分かったような気になっているのは、色覚テストで「13」と見えたのと同じことじゃないかという気がする。とんでもない誤解をしている可能性もあるんだし、「分かりません」と見限るべきかもしれない。でもそんなことをしていたら、知り得るかもしれない機会を放棄することになる。分かったようなまででも、知らないままよりはいいじゃないと割り切ってきたが、「13」の影につきまとわれているようで、なんとも落ち着かない。
2021/12/30