夢や目ざすものなんかあったためしがない(改版)

小学校の高学年になったころから、ぼんやりしたものにしても夢や目ざすものがあるから、頑張れるんだと思っていた。いい年をして、今さら夢とか目ざすものなんてと思いはするが、しいて思い浮かぶのを挙げれば、ピンピンコロリぐらいで、目ざ先は棺桶ぐらいしかない。そんなことを思いながら、今まで何をしてきたのかとちゃちな人生を振り返ってみたが、夢や目ざすものなんか、いくら考えてもあったような気がしない。それなりに頑張ってはきたんだから、ないはずはないのになにもない。夢や目ざすものがあるから頑張れるというのは、どうも思想教育(?)のおかげで、そういうものだと思い込んでいた、というより思わされていたといったほうが合っているような気がしてきた。

中学に上がった頃には、船乗りかジャーナリストになりたいと思っていた。高専では数学と力学漬けにうんざりして、報道カメラマンになれないかと夢見たこともあった。ただそれは漠然とした思いで、小さな子供が「大きくなったら何なりたい」って訊かれて、「お巡りさんになりたい」とか「ケーキ屋さんになりたい」といっているのと何も変わらない。どれも机に座っての仕事だけはイヤだという気持から生まれたもので、そんなもの夢とか目ざすものと呼べるようなもんじゃない。この年になるまで、精一杯いろいろやってきたが、どれも状況に流されて頑張ってきただけとしか思えない。夢や目ざすもののありなしと頑張るということ間に世間一般でいわれているような関係があることもあるし、ないこともあるんじゃないか、というよりあることの方がめずらしいんじゃないかとしか思えない。

私生活を犠牲にしてまで仕事仕事で走り回ってきたし、仕事をせんがための勉強もし続けてきた。でも、それは目の前に責務としてある仕事やその一歩先の課題やチャレンジの準備であって、夢とか目ざすものに向かってというものじゃない。どこにいったところで、何をしたところで所詮サラリーマン、周りをみれば、目の前の職責を要領よく捌いてつつがなくという人が目につく。それがごく一般的な生き方なんだろうと思うし、できるものならそうしたいと思い続けてきた。なんどかそうしようと同僚の仕事の仕方を真似したこともある。そのたびに真似もできない不器用な自分がイヤになった。

高専の機械工学科を卒業して工作機械屋に就職した。工作機械の技術屋になればというのは自然の流れで、特段なにを思ってのことでもない。左翼思想を問題視されて三年目には輸出担当の子会社に、六年目にはアメリカ支社に左遷された。辞令という赤紙一枚で海外にまで飛ばされるサラリーマン家業に嫌気がさして、自由業に憧れた。三十歳を前にしておれはいったい何をやってきたんだ、何をやらなければならないのかと考えだしたが、何も思いつかない。当時労組の青年婦人部では紅か専かなんていう不毛?の言いあいが続いていた。紅は捨てられないが、専と呼べる何かがなければ、先々メシを食っていけないんじゃないかと不安だった。食ってくためにも将来への足掛かりになる勉強をしなければと思っても、何をしていいのか分からない。コンピュータの勉強をと思ったが、ちゃちなものでも月給の何倍もしてとてもじゃないが手が出ない。七十年代末、マイコンなんておもちゃのようなものが出てきたが、そんなもの買ったところで、夏休みの宿題のようなプログラムを書けるかどうかというところまでで、仕事で使う立場にでもならないかぎり、これこれの能力がありますなんて言えるようにはならない。いくら考えても何をしていいのか分からない。薄給のなかで思いついたのは夜の英会話の学校に通うことだった。それ以外には何も思いつかなかったというだけで、何を目ざしてというわけでもない。中学の英語ですら怪しいのが、英会話教室の授業が退屈でしょうがない。それでもやってれば水垢が溜まるように何か残るだろうと思おうとしていた。

イエローページから見つけた人材紹介会社いくつかに登録してはみたものの、三十近くにもなれば前職の経験を活かしてという話しかでてこない。腐ってはいたが名門と言われた一部上場の会社から名前も聞いたこともないところにいって似たような仕事をする気にはなれない。出てきた話をいくつか断って、マニュアル類の翻訳を依頼していた外注先に見習社員としてやとってもらった。転勤や転属のない、働く時間や場所になんの制約もない翻訳者という自由業になれるかと思ったが、翻訳会社に入って社員として働いていれば翻訳者になれるわけじゃない。慌てて、技術翻訳に必要な英語を真面目に勉強しだした。それは好きとか、夢をもってというのとは違う。見習い社員、プロ野球でいえば育成契約一歩まえの用務員のような立場で試合にも出してもらえない。新米翻訳者(育成契約)になれるかどうかという試験を毎日受けているようなものだった。
時間があればアメリカの大学で使う工学書を読んで、これはと思う用語や文体がでてくれば、ノートに書き写して自分の言葉やフレーズとして使えるように準備していった。それは今日のメシから来月のメシを食っていくために必要な能力を培うためのものだった。そして実務をとおして見習い翻訳者(二軍の選手)として認められんがためのもので、夢とかなにか目ざしてというものじゃない。

荒れた日本語で何が書いてあるのか見当のつきようのない書類をまともな英文に置き換えていく仕事をしていたら、翻訳という仕事がバカバカしくなった。訳の分からない日本語を適当にどう読んだらいいのかわからない英語に置き換えることで禄を食んでいるベテラン翻訳者に混じって、価格競争をする愚もおかしたくない。「悪貨は良貨を駆逐する(失礼?)」社会に長居は無用。三年後にはアメリカの制御機器屋のマーケティングに転職した。そこで、市場開拓をどう進めるか、転がってきたクレームをどう処理するか、ぐちゃぐちゃになった製品開発をどうやって立て直すかに明け暮れた。それは目の前の課題や問題があってのことで、自分の夢や目ざすものがどうこういうものではない。

目のまわるような忙しさで過ぎ去っていく毎日を、ちょっと後ろに下がってみれば、すべては今ある状態のなかから一歩抜け出すため、あるいはその一歩先までのことに時間ともてるエネルギーを注ぎ込んでいるだけで、言ってみれば現状からの一歩でしかない。その一歩一歩の積み重ねが、時間の経過とともにかけがえのない能力として身に付くこともある。その能力を切り札に生きてゆくにしても、それが夢の実現や目ざすものへの足掛かりにはならない。そもそも、生まれた時から古希を過ぎるまで、一生をかけた夢だとか目ざす目標なんかあったためしがないのだから。

これといった夢もなければ目ざすものもない。なんとも情けない人生だと思うが、この何もないことが幸いすることある。何をしたところで、してきたことにさしたる思いもなければ、しがらみもない。知らないことを知り得る機会があれば、失業の危険を承知で新しい世界に飛び込んでいけた。
油職工になりそこなって技術翻訳者に転身した。そこからアメリカの産業用制御機器屋でマーケティングとして新製品の開発から市場開拓に、そしてシステムビジネスに走り込んでいった。崩壊寸前の画像処理事業の再生に関わって、二年後には世界を制覇した感のある画像処理専業メーカのマーケティングに呼ばれた。そこから画像処理用LED照明屋に、そしてX線分析屋に転身したかと思えば磁気探査にまで足を突っ込んだ……。

事業の立て直しに走り続けてきたからだろう、目途がついてしまえば興味も失せる。似たようなことの繰り返しになると退屈でしょうがない。また呼ばれて、一か八かの立て直しに取っかかるを繰り返してきて、五十近くなってお前はなんなんだと思いだした。まさかこんなことになるとは思ってもみなかったが、気がついたら傭兵とでもいうしかなくなっていた。度の過ぎた緊張感までならまだしも、いつ馘になってもおかしくない泥沼で匍匐前進しながら勝を探し続ける毎日、やってられるか馬鹿野郎なんてことも起きる。そんなことをしていれば情報も知識も拾えるが、夢もなければ目ざすものなんかあるわけもない。
2022/3/12