なぜ?と本当?から生れた作りもの(改版)

飯屋というと叱られそうな小洒落た、なんとかテラスという店でとてもじゃないが一人じゃ入れない。予約してくれたかつての同僚に感謝している。ただどうにも場違いで落ち着かない。ざっと見わたしたら女性客しかいなかった。メニューには今風の一品やランチセットがならんでいた。盛り付けにも気を遣っているのだろう、綺麗な写真もレイアウトも洗練されている。ページをめくっていくだけで、退屈な日常から抜け出たような気になる。どれも美味しそうだけど、本当かよ?という貧乏人根性が恥ずかしい。ガパオライスも気になるが、カレーなら大きな外れはないだろうと、一ページ目の下にあったバターチキンカレーにした。出てきたカレー、上品すぎる。カレーならあってしかるべき野趣に欠ける。昨今のさしさわりのない人付き合いを象徴するかのようなカレーだった。

若い女性御用達の店で十二時前から三時すぎまで昔話と近況報告……。ああだのこうだのと言い合いながら、たまに周りを気にしたが、テーブルを詰め込まない、ゆったりした店のおかげもあって誰も気にしている様子はない。三人とも歳はとっても昔と何も変わらない。元気でなりより、「じゃあ」で別れたが、相手のなかに見た自分が棘のようにひっかかったままどうにもならない。山手線で窓の外をながめていたら、池袋に着いてしまった。腹が減ってるわけじゃないが、カツ丼でも詰め込めば気もまぎれるかもしれないと飯屋に寄っていった。

十時過ぎには家をでたから、都合七時間ほど時間を割いたことになる。急がなけりゃと、日々のルーチン作業に集中した。ひと段落ついたところではたと思いだした。六、七年ぶりに会って「じゃあ」で終わり?それっきりというのもなんだか後ろめたい。明け方、かたちながらのお礼メールを入れた。翌日昼前に起きて、メールをチェックしたら、ちょっと長めのお礼の返信メールが届いていた。
色々書いてあったが、ひと言で言ってしまえば、一緒に仕事をしていたときにも何度か言われた「昔からよく本読まれてましたしねー」だった。
どういう意味だ?あんた本を読んで知り得たことを、あたかも自分で考えたか、思いついたかのように言ってるだけじゃないのかとでもいいたいのか?拾った情報や知識をそぎ落としてみたら、何が残ってんのかねーって?そこまで考えてのことではないのは分かってはいるが、なんとも釈然としない。二十代から気にしてきたことで、人に言われるまでもなく分かっている。

いろんな人たちから影響を受けてきただけの、どれもこれも借り物で他と一線を画したオリジナリティなんかあるわけがない。それでも、あえて言わせて頂ければ、あっちから拝借したもの、こっちから受けた影響……を紡ぎ合わせていけば、たとえ小声にしても、それはそれなりに恥ずかしながらのオリジナリティもどきぐらい生まれるかもしれないじゃないかと思っている、と思おうとしてきただけかもしれないが。
他人の目に映る自分は、ハギレを縫い合わせた「馬子にも衣裳」のようなものなのかもしれない。そんなものでも、知らなかった社会や技術……に気がつけば新しい状況を示すハギレと交換してきた。その新しいハギレとの整合性を保つために回りのハギレにも手をいれてきた。社会の変化が早すぎて、取り込まなければならないと思っていたバギレを手に入れて、どうやって組み込むかともたもたしていたら、取り込む意味がなくなっているなんてことも起こる。そしてどのハギレの交換にも手間暇かかるから、馬子の衣装には常に時間遅れがある。それでもそうして更新し続けている衣装は当人の不安をよそに仕事仲間には十分堂にいっているように見えるらしい。

二十代のなかごろ、高専の同期の一人がまとった衣装をみて、なにをしているのかに気がついた。ただ一人の親友だった。週末や連休には柏の寮から田無の実家に戻ったが、二人で吉祥寺や高円寺で夜明かしして、実家にはほとんどいなかった。ニューヨークに左遷される前だったから、二十四の時だったと思う。サテンでなんの前置きもなしでぼそっと言われた。「お前は自分に自信がないから、あれこれ読んで理論武装しようとしているだけだ」「そんなことしてると、自分ってものを失うぞ」「何を言ったところで、知識として得た理論をあれこれつなぎ合わせているだけで、それが本当のお前なのか、自分でもわからくなっちゃうだろうが……」

他人にみえるのは経験と情報漁りから培ってきたロジックの寄せ集めでしかない。理論武装というような高尚なもんじゃない。こうだからこうだからこうだろう、こうじゃないからこうじゃないかと、新たに見聞きすることを手持ちの知識と突き合わせては知識を更新してきた。その根柢にあるのは、分かっちゃいないだろうお前という、自分に対する不信と遭遇することに対する疑問で、辻褄が合わないことに対する不安でしかない。ただ、いくらこれこれこうだからとやっても、本当かよという不安はなくならない。自分を説得できれば、多少なりとも自信をもって人に話せる。話せば、そりゃ違うだとうと言ってくれる人もいるかもしれないしという期待もあってのことで、それを芯の強い人だと勘違いされても困る。強く見えるのは話をしているロジックであって、自分じゃない。まとった衣装を自分だと思われて、そのまとった衣装から、これがあんただよねと見せられるのはどうにもやりきれない。衣装がなければ歩けないが、衣装が歩いているような自分はみたくない。

p.s.
いくら知ったって考えたって、なぜ?本当かよ?違うんじゃないか?という気持はなくならない。年をとるとともにその気もちがうっとうしくなってきた。もう考えたくない、考えないようにできないものかと考えてきた。考えないように考えるというもの変な話だが、考えないようにするには三つの状態しかないだろうと思いだしている。一つは痴呆症で考えることができなること。二つ目は考えるのではなく、宗教でもなんでもいいからただただ信じられるようになること。そして三つ目は死だろう。どれも今よりよっぽど平穏なと、憧れがある。
2022/9/25