転職の相談はよしてくれ(改版)

機械屋になるんだったら、機械の機械たる工作機械をやろうと思っていた。四年生になった春、廊下に張り出された求人募集に東芝機械を見つけた。沼津ならいつでも実家に帰れる距離でちょうどいい。さっそく工作機械を教えてくれた教授に相談にいった。東芝機械のOBで嬉しさ半分?どこか後ろめたそうな顔して言われた。
「工作機械は一番先に景気が悪くなるのに、良くなるのは一番最後で、給料安いぞ」
なんでこんな売り手市場のときに、工作機械なんか選ぶんだ。よしたほうがいいんじゃないかという口調だった。七十一(昭和46)年、まだ高度成長の余韻もあって、高専卒業生は引く手あまただった。定員四〇名のクラスなのに、留年退学で毎年誰かがいなくなって、七二年の東京高専の機械工学科には卒業生が二六人しかいなかった。そこに日本各地から六百社以上の求人募集が来ていた。クラスには旅費会社持ちで、九州や四国に観光旅行気分ででかけていたのまでいた。四国の建設機械屋に行ってきた強者がへらへらした口調で言っていた。「あくせく働くのは性分じゃないんですよ」って言えばOKだ。きちんと不採用にしてくれる。

若さもあってのことだが、安月給でもかまいやしない、しっかり仕事をすれば金なんか後からついてくるものだと思っていた。古巣の東芝機械より隣の芝生の日立精機の方がいいという先生の勧めで日立精機に入った。ところが仕事を覚える前に思想問題でひっかかって三年目には子会社に、五年目にはニューヨークの孫会社に飛ばされた。帰任して勤続十年にもなろうとしていたが、とうにエンジニアへの道は閉ざされていた。いったいオレはなんなんだって考えていくと結論は一つしかなかった。状況を冷静に考えれば、日立精機にいる限り、クレーム処理やら海外からの研修生相手のにわかトレーナなど、よろず引き受けの便利屋で終わる。

当時は日給月給だったから、祝日や休日が多いと勤務給が減る。八二年の五月の手取りは、覚えやすい数字で忘れもしない一二万三千円だった。税金や社会保険に組合費や闘争積立金など、あれこれ引かれたにしても、勤続十年でそりゃないだろう。田無から我孫子まで片道二時間近くかけて通って、三六協定いっぱいの残業してもこれだけだった。この程度なら近間でうろちょろしてたって稼げる。しがみ付く会社でもなし、将来があるわけでもない。昔ながらの製造業の時代でもあるまいしと思っていた。人材紹介会社に登録してはみたものの、聞いたこともない中小の機械屋の話しかでてこない。仕事を探してる機械屋なんか、きちんと大学を出ている人たちも含めて巷にごまんといる。こんなこともあるのかというきっかけから、八二年の九月に翻訳会社で見習い社員として雇ってもらった。

英語なんかまともに勉強してこなかったが、一所懸命やればなんとでもなるだろうという生来の能天気に後がないという切羽詰まった焦りのようなものを胸に技術翻訳の世界に飛び込んだ。試験も兼ねた二行三行の訳抜けを翻訳していて、気がついた。技術書類は英語の知識があれば翻訳できるってもんじゃない。日本語で書かれた内容を英語に翻訳すには、当たり前のことだが、日本語で書かれていることを英語で言い換える技術上の知識が欠かせない。インターネットなんて便利なものどころか、携帯電話なんてものも想像できない時代で、毎晩アメリカの大学の教科書やアメリカ大使館の図書室で手に入れたアメリカの業界誌を読んでいた。三年半の翻訳屋稼業で、広範な技術知識を日本語と英語で習得した。そこから、アメリカの会社やヨーロッパの会社への転職の機会が転がり込んでくるようになった。ときには日本の会社に戻ることもあったが、基本は軸足を日本に、もう一方の足を欧米において大股開いて丁々発止の渡り稼業になってしまった。

二〇〇五年アメリカでの仕事がかたづいたから、そろそろ帰国する予定だと親しい知り合い何人かにメールを送った。翌日には、渡りに船のメールが返って来た。アメリカに行っている間に転職する前の会社の同僚も転職していて、オランダの会社で困っていた。一年二年の腰掛でもいいから助けにきてくれと言われて、日本支社に転がり込んだ。腰掛と言われてもダラダラしていられる性質じゃない。忙しくあれもこれもと走り続けていないと落ち着かない。オランダ本社の世界全体を見渡した戦略はいいけれど、セメントと鉱山に注力しろと言われても、そんなもので日本市場はやっていけない。自動車と電気・電子産業を開拓しなければ日本支社の将来は望めないと説得を試みたが、聞き耳を持たない。そんなところで貴重な時間を潰しているわけにもいかないと思っているところに、こんどはアメリカのコングロマリットの産業用制御機器事業部から声がかかった。事業部は二十年以上前から日本の会社と形ばかりの合弁会社だった。知らない業界でもなければ知らない会社でもない。合弁会社には、かつての同僚が営業部長としていることもあって、裏事情までそこそこ知っていた。行ったところで仕事になんかなりっこない。それでもオランダの会社でくすぶっているよりはいい。拾うものの一つでもあればめっけもんと二〇〇七年に転職した。日本の合弁相手が工作機械専用の数値制御システムメーカだったから、ただでは済まないだろうと思っていたが、日常業務で関係することがないことがわかってほっとした。ただ一つ忘れていたことがあった。翌年の秋、展示会で二五年も前に足を洗った古巣に身をさらすはめになった。

日本の工作機械メーカが偶数年に全力を挙げて東京ビッグサイトで展示会を開催する。日本国際工作機械見本市なんて長ったらしい名前を口にする人はない。略してジムトフ、JIMTOF(Japan International Machine Tools Fair)。ビッグサイト全館を使う大きな展示会だが、一週間以上合弁会社の小間に立ち続ければ、日立精機の連中に見つからないわけがない。何も後ろめたいことはないし、会ったからといってどうってことでもない。身分保全の労働争議で東京高裁で証言台に立って、会社に不利な証言までして厄介者扱いされていた当時とは立場が違う。会ってイヤな気持ちになるのはそっちでこっちにゃ関係ない。涼しい顔をしていればいいじゃないかと思いはするものの、しょぼくれた、しょっぱい面なんか見たくもない。

展示会が始まって一時間もしないうちに見つかった。
「あれ、藤澤さん。こんなところでなに?黄色いジャケットなんか着て何やってんの?」
主な出展社にご挨拶に回っていたのだろう。工作機械とその先の自動車産業を専門とした業界誌の社長と編集長に捕まった。
随分お世話になったが転職して違う世界に行っていて、もう何年も会っていなかった。懐かしさもあって近況を簡単に報告した。二人して、なんでと思うほど嬉しそうな顔をしていただいたのは嬉しいが、どうにも後ろめたい。
「そうか、帰ってたんだ。そりゃよかった。また色々教えてもらわなきゃ」
「いえいえ、浦島太郎で、ずいぶん変わりましたね。こっちこそ、ご指導お願いします」
「なにいってんだか、コンピュータのおかげで機械は簡単になるだけで、早々に制御屋転身した藤澤さんが何を言っていたのかがやっとわかってきたよ」
「いやー、まだまだこれからでしょう。いまのところは機械単体か精々一つのラインまででしょう。これからとんでもないことが起きますよ」
「え、なにが?」
「近いうちに制御装置がスタンドアローンで動いている時代じゃなくなりますから」
何をそんなに驚くのか?なんだそういうことかと思いながら。
「次のステージへの革新を進める邪魔をしているようなところが、ここにありますからね、黄色いジャケット見てると視野がぼけちゃうから、アメリカのコンピュータネットワークの進む方向を見てたほうがいですよ。あとで御社のブースへ遊びにいきますから」
情報は欲しいが、名古屋の本社までは、これといった案件でもなければ行きようがない。努めて軽く、失礼にならないように、
「名古屋まではなかなか行けそうもないですけど……」

黄色いジャケットを脱いでしまいたいが、小間にいる限り、そうもいかない。何をするでもなく、ただ立っているだけというのも疲れる。自社の製品も隅っこに置いてはあるが、火力発電所で使う代物で、誰も見向きもしないし誰かに説明をということもない。だらっと一日中突っ立ってるだけで、緊張感の欠片もない。

そんなぼーっとしているところに、突然「あ、藤澤さん」や、「え、まさか、もしかして藤澤さん?」という声が聞こえてくることがある。
名前を呼ばれて泡を食って、しょうもない営業笑で「えっ」「はい」って。歳もとったし随分太った。日立精機の同期や先輩の何人もが素通りしてくれたが、なかには気づくのがいる。知らん顔して通り過ぎればいいものを声をかけてくる。しょうがない最低限のご挨拶はと思う間もなく名刺を出される。そんなものもらっても捨てるだけだからと断るわけにもいかない。出されればこっちも出すしかない。出した名刺にある名前だけの代表取締役社長の肩書を見た時の、こっちを見上げるような反応を想像できるだけに出したくない。肩書に関わる方に話が転がらないようにと思っても、どうしてもそっちが気になるのだろう。

日立精機は二〇〇四年に倒産したはずで、吸収した会社に移った人もいるが、多くが同業やあちこちの会社に散り散りになった。ジムトフに顔をだしているのは、同じ業界にとどまった人たちで、精気がみえないのは年も食ったからだけとは思えない。そこまでは個人のことでしかないが、こっちの転職をうらやむような口調は止してくれってどなりたくなることがある。どうでもいいあれこれの話を前置きのようにして、転職の相談から挙句の果てには雇ってもらえないかと言いだすのまでいる。あんた日立精機にいたとき、何をしてたのか忘れたわけじゃないだろうな。労務の使いっ走りをして、さんざん人を邪魔者扱いしてきたじゃないか。あの肩で風をきったかのような輝きはなんだったんだ。どの面さげてと訊きたくなる。
アメリカの制御機器屋で走り回っていたころの話が成功した転職例として日立精機内で広がっているのは知っていたが、蛙じゃあるまいし、あっちにピョン、こっちにピョンってわけじゃない。個人の経験からでしかないが、転職の半分以上はうまくいかない。失業する覚悟なしには転職なんかできない。
そもそも六十近くまでひとっところで似たようなことを繰りかえしてきた人たちが、全く違う業界に転身するのは難しい。同じ業界のあっちのため池からこっちのため池に飛び移るのですら、清水の舞台からで、骨折ですまない可能性すらある。

あちこち渡り歩いてきたから言えることだと思うが、流れの早い川でそれなりにしても生き抜いて来た人たちには、年はくっても現役の熱が残っている。ため池のような流れという流れのないところで悠長に時の流れに身を任せて年を重ねた人たちとは違う。
「疾風に勁草を知る」なんて大袈裟なことを言う気はないが、変わらぬところで変わらぬ時を過ごしていれば、穏やかな生活だろうが、そんなことをしていたら、そこでしか頭も目も回らなくなっちゃうと思うんだが、どうだろう。

p.s.
<デタラメ記事>
ついでに書いておく。昔の話だが、誰がなにを言ってこようと、ただの事実でしかないからかまいやしない。八十八年だったと思うが、某大手転職月刊誌で転職成功例として紹介されたことがある。会社がアレンジして、記者とカメラマンが事務所にきて取材された。完全なミスキャストで、事実を事実として言いたい放題言った。届いた雑誌には言ったことは全く書かれていなかった。聞いたことをそのまま記事にできないのは分かるが、あまりのデタラメさに呆れかえった。この程度の人たちのデタラメに乗せられる人たちがいるということだろう。
見たいものしか見ようとしない人も多いし、見たい物を見せれば売れる。それは今も昔も変わらない。
2022/6/8