気持ちが時間を産む(改版)

豊富な経験から自信のある人もいれば、さしたる能力があるとは思っていない人もいる。経済的に余裕のある人もいれば、生活が苦しい人もいる。状況は人さまざまだが、一日二四時間という制約はみんな同じ。こんなことをいうと、時間を自分のために自由に使える人もいれば、身を切るようにして他人に尽くさなければ生活が成り立たない人もいるじゃないかいう声が聞こえてきそうな気がする。たしかに物理的な時間は同じでも、自分に使える時間がすべての人に公平に与えられているわけじゃない。それでも、そのさまざまな立場の人たちが毎日あれこれしている時間は、誰にも公平に一年三六五日、一日二四時間。何をすることもなく、ゆったりと心休まる時間を満喫している人もいれば、その同じ時間に重筋労働にいそしんでいる人もいる。していることは正反対だが、過ぎ去っていく時間として両者の間にはなんの違いもない。寝ていようが、娯楽に興じていようが、仕事で忙殺されていようが、なんからの生理的、精神的、肉体的活動をしている時間が過ぎて行くことに変わりはない。

そこで今までしたことのない、あるいはしたことはあるけど止めてしまったことをやり始めようとすると、今していることの何かを止めなければ、しようとしていることをする時間を空けられない。どんなことであれ、していなかった何かをしようとすれば、いままでやっていたことの何かを止めて、やろうとしていることに時間を割かなければならない。
忙し過ぎて時間を割くなんてとてもとてもという人たちがいる。確かにまとまった時間をとれない人も多いだろう。でも時間の隙間をさがせば、こっちで十分あっちで十五分と細切れにしても自由に使える時間が見つかる。隙間の時間を捻りだせば、あたらしいことに手を付けられる。例えば、朝三十分早く起きて、風呂から上がったら十五分というふうに決めて。

何をするにも体は一つ、一日二十四時間しかない。これといった能力や才能があるわけでもないけど、今の自分のままで棺桶には寂しすぎる。何を知ってるわけでもなし、思いつくこともしれている。良くも悪くも年もとって、いまさら知らないところに一人で乗り込んで一仕事という気にもなれない。

そんなことを考えていて、去年つつじが咲き始めたころトルコ語の独習を始めた。ヨーロッパ系の言語ではないこととアルファベットをつかっていること、そして欧米とは違う視点で世界を見られるようになれないかといことからだった。背景には学校の英語の勉強に対する面当てのような気持ちがある。中学で三年、高専で多分二年授業は受けたが、入社六年目にニューヨークに島流しになって、学んだのはただの教養の英語だったことに気がついた。その後仕事でいろいろな人たちと出会ったが、その多くは大学の教養課程も含めて八年も勉強してきて、日常生活もおぼつかない英語の知識だった。なかにはご丁寧に英検何級などという人たちもいたが、おそろしいことに、その学校英語の勉強の仕方が生きた英語を習得するのを難しくしていた。

トルコ語なんか英語と違って、イスタンブールとヨーグルトぐらいしか知らない。普通だったら家庭教師を探すか会話教室に通うところだが、それじゃ学校教育の英語より条件がよくなってしまう。教材も辞書もなにもかもWebで賄って、ノートですら金をかけずにやったらどうなるんだろうと始めてみた。日本語で書かれた教材二つに英語の教材一つで数ヶ月でやってみたが、これでは駄目だと違う教材と辞書(どちらも英語ベース)にネイティブによる読み上げソフトをみつけた。知ってる限りでしかないが、無料の教材ではこれ以上はないだろうというものなのに、やらなければという気持ちを持ち続けるのがむずかしい。時間の捻出より気持ちの問題の方がはるかに大きいことを再確認した。

そもそもトルコ語なんか、やらなければならないわけでもなければ、やったところで何になるわけでもない。やっていて楽しいなんて思うほど変わり者でもない。それでも、止めずに続けていればという気持だけは失わないようにしている。時間は捻りだせても、十五分でも続けるのが辛い。辛い気持ちを押しのけるのは押しのける気持ちを生み出す環境、はやりの言葉でいえばインセンティブあるいは必要に迫られてになるのだろう。環境を作り出すー自分で自分を思い込ませる手立てはないものかと考えている。そのせいで、どうにも毎日気が重い。そんな思いまでして何になるんだ。お前ば馬鹿かという自分を蹴とばすにはどうしたらいいのか。止めるはいつでも止められる。でも、どうしたものかと。
なんでこんなことになることしか思いつかないのか。いい年をして、こんなことを書いている自分に呆れている。
2022/6/19