生れで負けて育ちで負けて、そして(改版)

どの本だったか覚えていないが、あとがきの類も読み終わって一番後ろ並んでいる目録を眺めていたら、『リターンマッチ』後藤正治著が目に留まった。ボクシング好きから「リターンマッチ」という題名に惹かれた。数行の紹介からではどんな本なのか分からないし、著者も知らない。軽い気持ちで図書館から借りてきたが、なんどか涙しながら拝読した。
齢のせいで最近は階段の上り下りも面倒くさくなってしまったが、ボクシング好きは変らない。数あるスポーツのなかでもボクシングは最も過酷なものだと思う。体力の限界をつくして戦わなければならなのに、体重制限があるから食べたい物も食べられない。毎日厳しいトレーニングに明け暮れるストイックな生活を乗り越えて、初めてリングに上がることを許される。
あれほど体重にはうるさいのに、なんとも不思議なことにリングの大きさには若干の幅がある。日本では内側の寸法で、一辺十八フィート(約5.47メートル以上で、最大でも一辺二十四フィート(約7.31メートル以下)の正方形と規定されている。ざっと六メートル四方のリングに上がれば、パンツ一丁の殴り合いになる。素人目には殴り合いにしか見えないボクシングにはプロのボクサーでさえ到達しえない奥の深い技術がある。
ただの殴り合いではないことを教えてくれる動画がある。プロの解説者ではないと思うのだが、ボクシング解体新書以上の解説を聞いたことがない。解説抜きで動画をみても、何が起きているのか理解し得ないボクサーも多いんじゃないかと、失礼ならが想像している。

「メイウェザーの超絶テクニックを解体します。カネロ・アルバレス戦より 脅威のスピードとボディワーク」
https://www.youtube.com/watch?v=Wsl_5ekh0Ko

「井上尚弥 VS ナルバエス 真のモンスター誕生の瞬間」
https://www.youtube.com/watch?v=IAgXBgxQUg0&t=14s

「リターンマッチ」には、定時制高校の数学教師である脇浜さんがボクシング部の部長として、ボクシングを通して生徒たちに輝く青春を謳歌してほしいという思いが綴られている。彼自身養成工を続けながら、一九五六(昭和三十一)年に神戸市内にある湊川高校の定時制に入学して教師の道を歩んだ人だった。
当時ですら定時制高校を卒業しても職業はかぎられていたが、定時制高校が若い人たちに僅かな希望を与える場になっていた。当時の定時制高校の生徒たちの多くは、上昇志向の、向学心の旺盛な勤労青年だった。この点が現在の定時制高校生と大きく違う。
かつては製造業などの定職に就く生徒が多かったが、今は定職を諦めてか避けてか、アルバイトやフリーターなどの不正規雇用でその日その日と流れている生徒が多い。産業構造の変化が就労の機会を変えてしまった。
生徒の多くが貧困と育児放棄など家庭の問題を抱えていた。家に帰っても満足な食事にありつけないから、授業にはでなくても夕食を食べにくる生徒もいた。夏休みには満足な食事を得られずに痩せて帰ってくる生徒もいた。
生まれで負けて、育ちで負けて、勉強でまけて、そんな生徒たちに、脇浜さんはボクシングで一度でいいから勝つ喜びを味合わせてやれないものかと思っていた。アマチュアボクシングではプロボクシングと違って手数が重視される。先天的にさしたる運動能力を持っていなくても、日々の厳しいトレーニングで鍛えれば、手数でポイントを稼いで勝てる。

『リターンマッチ』には感動したし涙もした。でも何か足りない。何が足りないのかわからないまま数ヶ月経ったある日、Yahooの(広告?)記事に『アンダーズ〈里奈の物語〉 1 鈴木大介/原作 山崎紗也夏/漫画』を見つけた。『リターンマッチ』になかったものがここにあるんじゃないかと直感的に思った。ただ広告にあったのは漫画だった。まあ『資本論』を漫画でなんてのは三十年以上前からあるんだし、サブカルチャーもバカにしちゃいけないという気持もあって、まあ、ここは漫画でいってみるかと、豊島区の図書館で『里奈の物語 15歳の枷(かせ)』を予約した。貸出準備ができたという知らせをもらっていったら、出てきたのは普通の文庫本(鈴木大介著)だった。

『里奈の物語 15歳の枷(かせ)』は重すぎた。涙せずには読めない。それも一度や二度じゃない。ティッシュペーパーの箱を横にして二桁涙した。「15歳の枷(かせ)」は上巻だった。下巻の『里奈の物語 疾走の先に』も同じように涙しながら読んだ。いい歳をしてはずかしながら随分涙した。でも流した分以上の勇気をもらった。

家庭崩壊から児童養護施設へ、そして中学卒業を前に家出した少女が傷つきながらも、したたかに生き抜く姿をまざまざと描き出してくれていた。書名のあるように十五歳だということが独りで社会に巣立つには枷となった。十八歳にならないと親の許可なくしてはなにもできない。表の社会の仕事にもつけないし、アパートも借りられない。漫画喫茶やカラオケボックスで夜を明かすこともできない。独りで深夜の街を歩いているだけで補導される。親の許可なく未成年者を深夜の街を連れて歩けば、善意の人が一夜の宿を提供すれば犯罪になる。
何か食べなければ生きていけないが、収入を得る手段が表の世界にはない。行き着くところは闇の風俗か犯罪しかない。

著者鈴木大介さんは元々はルポライターで『里奈の物語』は今まで取材してきた人たちの話を、はじめての小説の形にしたものだった。でもそれは女の子のことで、男子はどうなのか?『里奈の物語』を読んだ人は誰もがそう思うだろう。ウィキペディアでみたら、鈴木さんが男の子については『ギャングース・ファイル』という本にまとめているのが見つかった。
寝るのは路上でもなんとかなるが空腹は満たせない。手っ取り早いのは万引で、これが家庭崩壊の被害者だった少年たちが加害者に変る始まりになる。そこから恐喝、詐欺、引ったくり、強盗……と犯罪が荒っぽくなっていく。暴力団排除条例等で裏社会を仕切っていた暴力団が力を失ったところに、インターネットと携帯電話が普及して、従来からの組織に関係なく、あるは距離を置いて仲間内でつるんだだけの少年たちが犯罪の主体となる情報社会が出来上がった。仲間内は個人個人の自己責任の上に成り立っていて、暴力団が持っていた縛りもない代わりに身内の面倒見もない。表の社会の社員としての身分保障のない請負家業に似ている。

『リターンマッチ』は家庭崩壊と貧困を描いてはいるが、それは表の社会までだった。一方『里奈の物語』や『ギャングース』は暴力団が仕切りきれない、未成年者の闇社会を描いている。そこには、次の時代を担うべき貴重な若い人たちが定職に就く機会を得ることなく年を経て一端の犯罪者へと成長していかざるを得ない傷んだ社会がある。

ホームレスの女性をインタビューしたYouTubeがある。語られていることが、どこまで事実なのか分からない。幼稚園からをそのまま信じるには出来過ぎのような気もする。躁鬱の躁の状態ではないかと思うが、あまりに明るすぎる。全てが嘘とも思えないが、どこまでが事実なのか分からない。参考にはなる程度で押さえておく必要があるかと思う。
「26歳の女子が幼稚園からホームレス生活になった理由がヤバすぎた…」
https://www.youtube.com/watch?v=Y_PgoV4zyFw

若い人たちが裏(闇)社会に流れていかざるをえない状況を作りだすのは、まず第一に家庭だろう。家庭が崩壊したところから、帰る家のない青少年や少女が輩出され続けている。家庭にかわるものを社会が提供できればいいだけのことだが、それができない。改めて考えると日本の義務教育(小学校にも中学校にも)には、若い人たちが社会に巣立っていくための教育があるようにはみえない。ましてや児童養護施設や児童自立支援施設にはと想像している。
ぼんやりと社会は一つで、そのなかでいくつもの小社会に分かれているものと思いがちだが、社会はまず大きく分けて表の社会と裏の社会の二つに分かれている。そしてその二つの社会間の人の移動、特に裏から表への移動は極端に制限されている。社会に出てゆくのに必須の教育を受けられない家庭に生まれてしまうと、よほどのことでもなければ裏社会の住人にしかなりえない。たとえきちんと義務教育(小中学校)を受けて社会にでても、でた先はすぐ後ろに裏社会が控えた社会でしかないだろう。生まれで負けて、育ちで負けて、勉強で負けて、出れる社会は裏に直結した表の社会が現実の人たちがいる。自分自身、一歩間違えばそこにいただろうと思うだけに他人事じゃない。
誰もが上を目指す自由と権利があるだけじゃ、住みやすい豊かな社会にはならない。上昇志向、響きはいいし夢があるように聞こえるが、そんなもの犯罪の少ない安全で住みやすい底の浅い社会を作ってから、みんなで一緒に求めるものじゃないかと思う。

p.s.
不可解な解説
書かれた当時の社会状況や著者がおかれた立場や背景を知らないから、解説を読んで初めて何をいいたかったのかに気がつくことがある。高専に入った夏休みに思い切って岩波文庫の『共産党宣言』を買ってきた。書名から想像していた重さを感じさせない薄い本だったが、十六歳には重すぎた。字面でなんとか解説にまでいって、上っ面でしかないにしても何が書いてあったのがわかったような気がした。それ以来ということでもないが、巻末の解説は大事にしている。

『里奈の物語 疾走の先に』には北上次郎さんの解説がついている。この解説がどうにも不思議でならない。知識不足からくる不思議でしかないとは思うのだが、どうにも釈然としないというのか、なぜこんなズレを感じるのか説明できないもやもやが消えない。
読みながら、固有名詞がでてくればWebで調べて、地名がでてくればGoogle mapで調べるのが習慣になっている。

解説には宇都宮をモデルにしたと思われると書いてある。
「『下請け製造業と博徒の街、伊田桐市。(中略)付近に立ち並ぶ飲食店や風俗店やパチンコ屋などは、みなこの競技場を訪れるギャンブラーたちを最大の客筋として栄えてきた』」
「おそらく宇都宮をモデルにした街と思われるが、その飲食店街で育った少女里奈が主人公」
ところが、作品中には伊田桐市は伊勢原市をモデルとしたとしか考えられない記述がいくつもでてくる。

『里奈の物語 15歳の枷(かせ)』
P79
「当年とって59歳。太平洋戦争終戦の前年に生れた志緒里は、生れてこのかた伊田桐をほとんど出たこともなく、そのほとんどの時を夜の世界の女として生きてきた」
…… 「志緒里が生れた頃、他の北関東の平野部同様に中島飛行機を中心とした軍需工業衛星都市として発展した伊田桐は、米軍による徹底した空襲を受けて大きな被害……」
中島飛行機(現富士重工)は群馬県太田市にある。伊勢崎市は太田市から西に十八キロいったところにある。
もし宇都宮をモデルとしているのであれば、県庁所在地という記述があってしかるべきで、太田市の中島飛行機から説明されることはないだろう。

P263
「東京の池袋に行こうと思った。池袋は里奈が行ったことのある最もひらけた都会の街で、貴亜が六恩園を去る前には下着売りやウリで貴亜が男と逢うのに付き合って、何度か行ったことがある」
「伊田桐から浅草に出て、都バスで一本」
…… 「浅草まで2時間40分ちょっと。そこから都営バスで1時間弱。正午すぎには、里奈は池袋の雑踏の中に立っていた」
宇都宮から池袋に出るのなら、JR湘南新宿ラインで乗り換えなしか、JR宇都宮線で赤羽乗り換えになるはずで、浅草に出て、そこから都バスという選択肢はない。

P280
「タクシーの中でサクラが調べてくれた始発は浅草駅5時16分で、伊田桐には2時間半強でつくという。浅草駅に到着するとまだ空は真っ暗で、凍り付くような寒さだった」
伊田桐は群馬県伊勢崎で、浅草発5時11分、舘林で一回乗り換え、7時43分伊勢崎着、所要時間二時間半強。

『里奈の物語疾走の先に』
P287
「あてもなく伊田桐駅から里奈の生活圏だった伊田桐バイパスと並行して流れる2級河川、平洲川に向かって歩いた。 お腹が大きくなると同時に少し腰痛がでてきた里奈だったが、元来の健脚で、寝たり座ったりしているよりも歩いているほうが腰が楽だ。コンビニで買ったニットキャップと耳あてで武装し、ざくざくと霜柱を踏みしだいて平洲川の河川敷にでると、土地勘も次々とよみがえってきた。川を渡って少し上流に遡れば、噴水がシンボルの親水公園。幸恵の入院する市民病院は公園の裏手にあるから、意外に近い」
Google mapで伊勢崎市市民病院を探すと病院と隣接した公園に川が見える。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E%E5%B8%82%E6%B0%91%E7%97%85%E9%99%A2/@36.3231234,139.1772683,18z/data=!4m5!3m4!1s0x601eef34bacd5561:0x61729c04255df6f9!8m2!3d36.3225745!4d139.1776653

宇都宮には競輪場が、伊勢崎市にはオートレース場がある。
伊田桐がどこをモデルとしているのか順当に想像すると、それは宇都宮市ではなく伊勢崎市にしかないと思うだが、なぜ解説で宇都宮としているのか分からない。
2022/8/9