バルザックが読めない(改版)

ウクライナに関するニュースを読んで、YouTubeで見るのが日課になってしまった。ロシアの軍事進攻が始まるまで、ウクライナについては、穀倉地帯だということとチェルノブイリ原子力発電所があるぐらいのことしか知らなかった。ウクライナがソ連の一部だったことが禍いしてのことにしてもひどすぎる。コンゴやナイジェリアのほうがまだ知ってる。ウクライナについて、たとえつけ刃にしても最低限の知識をと、ウクライナに関する手ごろな本を探した。
三月三十日、豊島区の図書館の蔵書に『物語ウクライナの歴史−ヨーロッパ最後の大国』(中公新書 1655) 黒川裕次を見つけて、予約した。似たようなことを思う人がいるだろうとは思ったが、予想以上で予約順位は二十二だった。貸出期間は二週間で蔵書が三冊。ひと月四週間としてざっと三ヵ月半、お盆まで待たなければならない。随分先になるなーと思っていたら、七月半ばに図書館から貸出用意できましたとメールが入った。

『物語 ウクライナの歴史』を読み進めて驚いた。ウクライナは「欧州のパンかご」から「世界の食糧庫」呼ばれるようになった農業国だが、先端工業技術を誇る大国だった。先端技術についてはモトール・シーチ社を挙げれば十分だろう。ウィキペディアの解説をどうぞ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%81

驚くことはいくつもあったが、ウクライナがソ連に編入される前はポーランドの支配下だった。そしてまさかそこにバルザックが出てくるとは思いもよらなかった。バルザックは一端の社会人として代表作の一つや二つは読んでおかなければと気にしてきただけに、想像をはるかに超えた破天荒な人生にたまげた。自分の言葉で解説する能力がない。『物語 ウクライナの歴史』を引用する。

「キエフより一〇〇キロ以上南西のヴェルヒヴニャという村に、二万ヘクタールの領地に三〇〇〇人の農奴をもつポーランド人貴族ハンスキ伯爵の城館があった。その妻ハンスカ伯爵夫人は美貌で有名だった。城館にはあらゆる贅沢品がそろい、子供にも恵まれ、ハンスキ夫婦は世間的には平和で幸せな生活を送っていた。しかし教養あるハンスカ婦人にとっては田舎の生活は退屈で精神的刺激がなかった」
「ハンスカ夫人と城館の四人の女性はバルザックの小説の愛読者となったが、一八三二年ついに暇に任せて、また遊び半分から共同で『異国の女』という変名を使ってバルザック宛に手紙を書いた。バルザックはウクライナという遠い国から洗練さえたフランス語で書かれた手紙をもらって、自分の名声が世界の地の果てまで鳴り響いている証拠だとして虚栄心をくすぐられた」
「ハンスカ夫人は本名、住所を明かさなかったが、二〜三度一方的な手紙を出した後にバルザックの反応が知りたくなり、今後も手紙を送り続けてよいかを当時は異例に属する新聞広告で合図してほしいと書いた。バルザックはもちろん手紙をほしいとパリの新聞広告欄にイニシャルで合図を出した。こうしてハンスカ夫人は家庭教師を連絡役にしてバルザックと秘密の文通を始め、ついには一八三三年スイス旅行をしたときバルザックと密会した」
「一八四一年ハンスキ伯爵が死に、一八四七年バルザックははるばるウクライナの彼女の城館まで訪れ、滞在する」
「二人はとうとう一八五〇年三月、近くの町のペルディチェフの聖バルパラ教会で結婚式を挙げた。しかし結婚生活は短かった。結婚後ウクライナからパリに向かう途次バルザックは病にかかり、パリについてまもなく同年八月死んだ」

早速図書館の蔵書をみて、『ゴリオ爺さん』 (新潮文庫)平岡 篤頼訳と『バルザック 』(1980年) −シュテファン・ツヴァイク (著), 水野 亮訳を借りてきた。
どちらもなんとか数十ページまでは読んだが、どうにも読み続けられなくなった。ゴロタ石のような文字が続いて、読めはしても文章としてすっと頭に入ってこない。荒れはてた山道をママチャリでいくようなもので、何ページも進んでいないのにページをめくる元気がなくなった。毎日そんなことを繰り返しては気持ちが荒んでいく。読み通すだけの教養がない。自分の読解力のなさに情けなくなった。読めませんと放棄するしかないのか?

読めなかったのは初めてのことじゃない。いままでにもなんども同じように頓挫してきた。なかには日本の立派な先生が書かれた日本語の本もあるが、ほとんどが翻訳本だった。翻訳本は職工のなりそこないには重すぎるということなのだろう。自分の不勉強を棚に上げての言い分になってしまうが、翻訳本の日本語は本当に日本語なのかと疑っている。
実は三十歳から三年半ほど技術書類の翻訳でメシをくっていた。日本語から英語への翻訳なのだが、あまりに一人称の日本語というのか、技術屋の個人のメモにすぎないといっても言い過ぎではない日本語との格闘だった。文字通り翻訳(?)したら、何が書いてあるのか分からない英文にしかならない。しょうがないから技術知識をもとに、要らない言葉を省いて必要な言葉を付け足して、英語を母国語とする人たちが誤読する可能性をできる限り排した文章を書いた。それは翻訳ではなく、原文の日本語を書かれねばならないことのヒントとして英語で書き上げたものだった。そんな手間のかかることをしていたら、一ぺーじいくらの翻訳料で飯を食っている翻訳者としは飯の食い上げになってしまう。巷の翻訳者や同僚の倍以上、ときには四倍もの翻訳料金を請求せざるをえなかった。それでも固定客はこっちの手が空くまで待ってくれた。字面で英語にしたものを訂正、編集する手間を考えれば、納期を延ばした上に倍以上の金額を払ってもお釣りがきたはずだと思っている。

そんな仕事をしてきたこともあって、原文に引きずられながらも巷の普通の人たちがするっと読める翻訳など、余程の翻訳者でなければ出来っこないと思っている。
重ねて言わせて頂ければ、文学者かその道のプロが翻訳したものなのだろうが、人様に読んでもらえる日本語になってない。日本語にあるべき言葉のリズムもなければ流れもない。流れが詰まってゴロタ石だらけの文章に堕している。そんな文章に浸っていたら、まともな日本語を書けなく可能性すら心配しなければならなくなる。
口直しになにかないかと探して、安岡章太郎の『文士の友情』を借りてきた。冒頭の『吉行淳之介の事』を読んでしゃんとした。
自分の教養のなさを棚に上げても独り言。気分を害される方もいらっしゃるだろう。ご容赦を。
2022/8/18