レーニンはクーデタ、エリツインは(改版)

当時東京高専には機械工学科と電気工学科に工業化学の三学科しかなかった。一学科定員四十名の小さな学校だった。どのクラスでも留年と退学で三十名前後の学生しかいなかった。そんなところでも学園紛争(もどき)があった。東京高専の三期制で三年生のときだから、一九六九年だったのは間違いないが、何月だったか覚えていない。ある日の午後、いつまで経っても先生がこない。教室でだべっていたら、外が騒がしい。何だろうと思って窓から下をみたら、管理棟の前にかなりの人数が集まっていた。みんなの前で多分五年生だと思うがハンドマイクを上に向けてがなっていた。なんだかわからないが、いくらもしないうちに大騒ぎのなか拍手で終わった。どこでどういう話になったのか、翌日から授業ボイコットが始まった。めんどくさい授業にでなくいていいと小躍りしてよろこんだが、家にいてもやることがない。しょうがないから、いつも通り学校に行って工業化学の知り合いと一緒に集会にでていた。

伝え聞いた話では、五年生の知り合いなのか、中学時代の同級生なのか、数人が日大全共闘をなのって指導というのか支援なのか分からないが乗り込んできてということだった。ボイコットには多分大多数の学生が賛成していたと思う。ただ、何を求めてのことかと聞かれても誰も分からない。周りをみれば、高等数学と力学にうんざりして高専脱出願望だけが共通していた。
高専なんてのは、高校と大学の専門課程を五年に詰め込んだ、体のいい職業訓練校でしかない。授業料は都立高校と同じ月九百円。多くは経済的な理由で大学進学をあきらめざるを得なかった家の出で、ボイコットをいいことにアルバイトに精を出すのまでいた。
中学をでてたかが数年しか経っていないのに、それぞれの学科の色が鮮明だった。神経質な電気と荒っぽい機械はノンポリ集団だった。当時公害が大きな社会問題になっていたこともあってだろうが、工業化学だけが社会問題に敏感だった。ボイコットを先導していたのも工業化学の五年生だった。
工業化学の助手が一人解任されて、工業化学からかなりの退学者がでて、二ヵ月以上続いたボイコットが突然終わった。制服制帽が廃止になっただけで、数学と力学の詰め込み教育にはなんのかわりもなかった。

高度成長を続けていた製造業の使い易い人材という要請をうけて設立された学校で、人文系の教育は軽視というよりお題目としてあっただけだった。社会もなにも知らずに七二年に日立精機に入社した。千葉県我孫子市に本社と工場があって習志野市にも工場があった。社会人になって多少社会が見えはじめた。雑誌「世界」が教科書だった。世界に掲載された左翼系の学者と研究者や知識人と呼ばれる方々の論説を目を皿のようにして読んでいた。社会党右派の労組の幹部や青年婦人部の先輩からは働く人たちが思っていること(?)を教えてもらった。共産党の人たちからはご指導(?)まで頂いた。集会で「がんばろう」につづけて「同期の桜」を歌う青年婦人部では、学卒の専に対する現場の紅を対比してか、「紅か専か」という実のない議論が続いていた。
思想問題でひっかかって左遷につぐ左遷でニューヨークの孫会社にまで飛ばされた。東京とも我孫子とも習志野とも違う異文化に一人入り込んでいった。そこで見聞きしたことに加えて技術翻訳者として、またアメリカの産業用制御機器屋でもまれて知ったことと「世界」に代表される左翼知識人の論説の間に説明のしようのないギャップに悩まされ続けて来た。左翼知識人の話が目の前でおきている現実社会から遊離した机上の話かもと思いながら、否定する知識も勇気もなく古希を迎えてしまった。

いい年をしてどうにも収まりきらない。死ぬまでにはなんとか始末をつけなければと思っていたとき、昔読んだ世界に北朝鮮を賛歌するような論文があったことを思い出した。いつの世界だったのかわからなかったのがやっとわかって、先に「プロパガンダを真に受けて」にまとめた。
http://chikyuza.net/archives/124663

その雑文を書いていたとき、昔読んだ藤村信の『ユーラシア諸民族群島』を読み直した。そしてYouTubeで遊んでいて偶然、『こうしてソ連邦は崩壊した  (BSドキュメンタリー)』を見つけた。ドキュメンタリーのurlは下記のとおり。
https://www.youtube.com/watch?v=IiSUwd_M8Gg

何を知っているわけでもない巷の一私人、言われていることや書かれていることが目の前で現実として起きていることから大きく乖離していれば、たとえ現実を拒否しようとしても現実が現実としてあることは否定しきれない。となれば、言われていることや書かれていることが十分でないか、故意であるかないかにかかわりなく、誤り(と言っては語弊があるというのなら、ズレと言い換えてもいい)があるとしか思えない。
世界に掲載された西川潤の論文?を見つけてからは、情報管制が敷かれた中央集権の強権的監視管理社会(例えばソ連、ロシア、中国、北朝鮮、キューバなど)の政治や経済に社会や文学や思想……を専門領域とする学者や研究者やジャーナリストの言を真に受けることだけは避けなければならないと思いだした。
現体制に批判的な話をすれば、論文でも発表すれば、現地に調査研究にいけなくなるばかりか、現体制から資料や情報を頂戴できなくなる。該当国(地)の中央官庁においてですら、各地で何がどのように起きて結果として何があるのかすら分からないことが多いだろう。管理社会の各地や各段階では自分たちの都合のいいように資料なりデータを作り上げるのは当然のように行われていると考えざるを得ない現実がある。そんなところを専門とする外国の研究者として何をどのように調査できるのか?と考えていけば、その人たちの話や論文をそのまま真っ正直に捉えるのは、知を放棄するに等しいとしか思えない。

情報管制を敷いた政府や関係筋から提供される情報やデータは大本営発表と五十歩百歩じゃないのか?そんなものを手にして分かったような話をしたり論文を発表したりで学者、あるいは研究者でございますと、ジャーナリストでございますと言えるのか?いい年をして、抱えたままの疑問がきりが晴れるように消えていった。うなされ続けた夢から覚めてみれば、爽やかな風が吹いていたとでもいう感じがしている。世界と西川潤に感謝している。

ドキュメンタリーを見る限り、エリツィンは武力なしで革命をやり遂げた。ロシア共和国の大統領でしかないエリツィンは、順当に考えて、共産党も軍もKGBもなにも掌握できていない。歴史上革命はいくらもあったが、武力なしでというのは極めて希なことだろう。中国の誰かが言ったことだろうと思うが、「政権(国家)は銃口から生まれる」が常ではないことをエリツィンが証明した。
ロシア革命を成し遂げたとされるレーニンはとみれば、すくなくとも『ユーラシア諸民族群島』の一節から見る限り、クーデタでしかない。それを革命と呼んだのも呼び続けたのも、働く人たちが主人公の社会主義国家だと主張してきたのも、なんだそういうことだったのかとしか思えない。
ちょっとながくなるが、一節を書き写して置く。

『ユーラシア諸民族群島』の一節
制憲会議はボリシェビキがその年四月から要求していただけに、多少の敗北は予想されるにしても、さけられない選挙でした。しかし、敗北は予想以上にみじめなものでした。七〇七議席のうち、敵手の社会革命党は三七〇議席の多数を占め、ボリシェビキは一七五、社会革命党左派四〇、ブルジョワと地主連合のカデット(立憲民主党)一七、メンシェビキ一六、少数民族グループ九九議席で、少数民族グループは圧倒的に反ボリシェビキなのです。ボリシェビキと社会革命党左派が連立を組むとしても、とても多数には手がとどきません。いいかえれば、ボルシェビキ革命は市民の声によって否定されたことになります。

すでに革命政権の首領であるレーニンはこの「反動の勝利」をうちくだくために、カデットの指導者グループを「人民の敵」とする政令をだして逮捕することから始めました。革命政権につよく忠誠を誓うとともの同じ程度にロシア嫌いのラトビア人精衛隊を首都ペトログラードへ呼びよせると、さっそくカデットの粉砕とともに社会革命(エス・エル)党の幹部の逮捕も開始しました。

レーニンが議会のおしゃべり、あるいは「白痴主義」を侮蔑するのは、ブルジョワ民主主義の支配が、「イワーヌシカ(淳朴な農民)を愚弄する虚飾」にすぎないと判断するからです。かれは『制憲会議についてのテーゼ』のなかで、革命の擁護する利益は議会の形式的権利よりも優先しており、議会の諸権限は革命から出発した権力に服従するか、あるいは消滅しなければならないという論法を用いています。これが、あいまいであったプロレタリア独裁の哲学の正体でした。そこでレーニンはブルジョワ的伝統の議会制度の対置して、革命の基盤となったソビエト(評議会)の絶対的な優位をもちだします。すなわち、あらゆる権力を労農階級の代表的機関であるソビエトの掌中に集めよ、というのがレーニンのスローガンです。

翌る一九一八年一月十九日、赤衛軍とラトビア人部隊の威力による議会閉鎖のあとに、レーニンが憲法制定会議の解散を宣言した夜、かれが全ソビエト中央執行委員会でおこなった説明はつぎのようです。「人民は制憲議会を要求したので、われわれはこを招集した。たちまち、ご覧のおとりの制憲議会になってしまった。本日、われわれは、すべての権力をソビエトへと要求する人民の意思にしたがって、悪名高き議会を解散した。ソビエト機関こそ、あらたな変装をこらした、二心ある妥協政治の利害を超えた、労働者大衆を代表するものである……」

もう十年も前になるが、ちきゅう座の催し物で見つけたセミナーで、初めて私用で大学の門をくぐった。関係者以外は立入禁止だろうしと心配で、守衛所でセミナーに出席したいのでと構内に入る許可をお願いした。セミナーの名前が大仰だったたこともあって、おどおどした口調になってしまった。守衛さんは、そんなことでいちいち言ってくるなと呆れ顔だった。そのセミナーではじめて大学の先生方から直接話をお聞きした。高専出の職工のなりそこないで、大学と教授……はじめてのことで恐れ多かった。
あれから十年、視野も視線も大きく変わった。古希を過ぎてやっと左翼知識人といわれる人たちの軛から抜け出した。ロシアはいまだタタールの軛の下にあるが、その軛があって成り立つ研究者もいるのかもしれないと言ったら、どれほどの失礼になるのか。二十代から七十過ぎまで背負わされた軛は重かった。還暦を過ぎて一線から身をひいて、青春を取り戻そうとしてここにいたるまで十年かかった。

p.s.
<ロシア共産主義が残したもの>
下記YouTubeにロシア共産主義が残したことの一つが見てとれる。
【ドキュメンタリー】中国・農民工がロシアへー国境の小さな村で勃発!大地争奪戦。知られざる食糧を巡る攻防をカメラが捉えた!
https://www.youtube.com/watch?v=sMGMufYgemc
全てが事実だという保証もないし、これが全てだとも思わないが、ウソでも作り話でもないだろう。

<ルイセンコ学説>
こんなやつもいたなとWebでみていたら、あの武谷三男までがと驚くものがでてきた。
太宰ファンという方のアマゾンのカスタマーレビューだが、ことのありようが書かれている。
「武谷三男や左翼研究者のルイセンコ騒動における言説の変遷。異様な『プロレタリア科学』と『ブルジョア科学』の峻別。科学と哲学と政治運動の混同。そして、誰も責任を取らない」
urlは下記のとおり。
https://www.amazon.co.jp/review/R2D3IIW7RHSAY4/ref=cm_cr_srp_d_rdp_perm
2022/12/31