情報格差社会を生むもの(改版)

いくらインターネットが普及しても、情報を見にいく(漁る?)必要を感じない、文化としての田舎の生活をしている人たちにとっては、今も昔も近所隣の小社会の生活があるだけでなにもかわらない。変っていないことに驚くこっちの態度に何を驚いてるんだと平然とされることも多い。知っている人は知っている、知らない人は、知る必要のない人は、何時まで経っても知らないままでいる。それが社会というものだと、あらためて思わざるを得ない記事があった。

Die Weltは穏健右派の大衆紙だからと言ってしまえばそれまでなのだが、多少新味のある香料をまぶしたステレオタイプの情報が、普通の人たちの常識になってしまうことを思うと、ちょっとした焦りがある。Die Weltのようなメディアにまかせていたら、ヨーロッパの人たちの日本に対するイメージ(常識?)が、フジヤマにゲイシャからアニメと寿司なった程度の改善で終わってしまう。
Wikipediaによると、「Die Welt was founded in Hamburg in 1946[8] by the British occupying forces, aiming to provide a "quality newspaper" modelled on The Times.」だそうで、DeepLで機械翻訳すると下記になる。
「ディ・ヴェルトは、1946年[8]、イギリス占領軍によってハンブルクで設立され、『タイムズ』を模した「質の高い新聞」を提供することを目指した」

「質の高い新聞」を目指したDie Weltが、十二月三日付け「Japan celebrates New Year with unique traditions」(機械翻訳すれば、日本の新年はユニークな伝統行事で祝われる)で、ありがたいことに日本の文化を紹介してくれている。urlは次のとおり。
https://www.dw.com/en/japan-celebrates-the-new-year-with-unique-traditions/a-64262593?maca=en-newsletter_en_bulletin-2097-xml-newsletter&r=17278391401318980&lid=2394080&pm_ln=182963

記事によると、日本人は下記(DeepLによる機械翻訳)のように正月を迎え過ごすそうだ。
「お正月には、神社で健康や福を祈り、おいしいお正月料理を食べ、天皇陛下のお言葉を拝聴します」
「何世紀も前から続く習慣と、最近になって行われるようになった儀式を守りながら、週末に新年を迎えました」
「伝統的なお正月の習慣は今も大切にされている」

「正月は忙しい時期である。 また、社員は冬のボーナスの多くを同僚や友人との忘年会で使う」
「小学生たちは、年末年始の数日間、教室の大掃除をする」
「年末年始の旅行ラッシュで飛行機や電車が満席にそして、この連休の次の段階は、大都市から全国の町へ、大家族でお祝いをするために大移動することである」

「十二月三十一日(機械翻訳では大晦日になるので筆者が日付に変更)は『大晦日』と呼ばれ、家族で特別な食事を楽しみます。健康で長生きすることを象徴する『年越しそば』を食べることが多いです。この食事と一緒に放送されるのが、『紅白歌合戦』である」
「一九五一年に放送されたこの番組は、紅組の女性歌手と白組の男性歌手が戦う4時間番組である。近年、この番組の魅力は薄れてきているが、大晦日の定番番組であることに変わりはない」
「この時、人々は防寒着に身を包んで近所の神社に向かい、火のついた火鉢と熱燗で体を温めながら、神様に新年の祈りを伝えるために列を作るのです」
「お正月の伝統的な食事は「おせち料理」と呼ばれるもので、通常、事前に用意したり、注文したりして、仕事を最小限に抑えるために冷やして食べます」

「天皇陛下、世界の人々への『希望』を表明」
「天皇、皇后両陛下は1月1日、他の皇族から新年のあいさつを受け、公の場に姿を見せたが、パンデミックへの懸念が残るため、儀式は縮小された」
「天皇陛下は声明で、新年を迎えるにあたり、世界中の人々に『希望』を示すとともに、コロナウイルスや世界各地の紛争によって『多くの命が失われたことに深い悲しみを覚えます』と伝えられました」

フジヤマとゲイシャよりははるかに事実を伝えているが、その事実がすべての人にとって事実ではない可能性があることを考えるドイツや海外の読者がどれほどいるのか。あまりにステレオタイプ、それも十年、もしかしたら、二十年以上も前にはよくあった光景だけどという範疇から一歩もでていない。火鉢と熱燗?いつの時代の話だ?
もう十年近く初詣には行ってないし、大掃除なんか考えたこともない。日本では首都圏から離れたことがないから、帰省ラッシュには縁がない。天皇陛下のなんとかなんてのを気にするほど能天気じゃない。
毎週焼いているパンにちょっと飽きて、この数週間市販のパンも一緒に食べている。元旦も一年三六五日の一日、日のあるうちにと西武デパートの地下に入っているスーパーにフルーツブランという商品名のパンを買いに行った。

全ての海外からのだけでなく、全てのニュースというのか情報には付いてまわるバイアスがある。どうしても自分たち(あるいは受ける相手)の歴史や文化や習慣とは違う、なにかエキゾチックなものを求めてしまう。日本人にとって、東京とさしたる違いもないパリの、ユーヨークの、北京の日常はニュースにならない。
もう十年以上前になるが、ミュンヘンのホテルの近くに回転寿司をみつけて試しに入ってみた。そこでは世辞にもスシとは呼べないものが回っていた。英語のガイドブックでみつけたロンドンで人気(多分日本人以外の人たち)の日本食屋に行ってみた。メニューにあった定番の日本メシを注文したら、何だかわからないものがでてきた。とても食えた代物じゃなかったが、店を出ようとしたら、なんでこんなことを訊くのかというアンケートが待っていた。訊かれるままに答えていって、途中で遮った。「まともな日本メシをだしてからにしろ」
日本では想像もつかない日本メシが世界のあちこちで流行っている。ときにはそこから色々な発展形がうまれて、日本に逆流してきて、新しい日本メシのバリエーションがうまれることもある。違いに対する寛容さと鷹揚さが次の文化を育む土壌となる。

ステレオタイプのニュースより次の時代にむけた、まだ周知されるには及ばない社会や文化の胎動をつたえるのがジャーナリストの責務だろう。その点でみると、Die Weltの記事には読み流すまでの価値しかない。この程度の内容なら、日本についてろくに知らなくても、Webで情報を漁れば書ける。ジャーナリスト連中、流れて来るに情報をちょちょいとまとめてじゃ、巷のフリーランスのライターと呼ばれる人たちと何が違う。インターネットのおかげで情報を発信するのも受信するのも楽になった。誰でも発信できることからだろうが、ネット上には雑文もどきの記事(?)が溢れている。そんなものが増えているということは需要があることの証だろうから、需要(読者)が雑文文化を育てているとも言える。

舌の肥えた客が一人前の料理人をつくるのと同じように目の肥えた読者が情報発信者を鍛える。目の肥えた読者を作るのは質の高い情報……と考えていくと、俗にいわれる鶏と卵のような話しになってしまう。この循環論(?)を逃げ口上に使う人たちがいるが、ろくに考えていない、あるいは考える能力がないとしか思えない。ちょっと後ろに引いて、生物の進化を鳥瞰すれば想像がつく。鶏が登場するはるか前に魚類がいたから卵が先で鶏は後になる。こうして考えていくと、質の高い(そして分かりやすい)情報なしには目の肥えた読者は生まれないから、情報発信者の質が先になる。高尚なものは晦渋なはずで、分かりやすいものは下等と思いこんでいる人たちが雑文もどきの情報の氾濫を助長している。読者は社会に対する責任の一環として情報を峻別しなけらばならない。

インターネットのおかげで、居ながらにして世界中の情報を手にできる時代になったが、違いを求める気持ちを整理しないと、どうでもいい情報に足元をすくわれる。データ処理方法や技術が発達したこともあって、誰もが自分も他人も標準的な人間だと勘違いしかねない。また知り得たことが全ての人に当てはまるわけでもないことをDie Weltが示している。

p.s.
<Google翻訳>
二ヶ月ほど前にスマホを買い替えた。PCで毎日海外の新聞に目を通しているが、スマホの便利さに驚いた。英語でもトルコ語でもキーを押すだけで、まるで本のメージをめくるかのように一瞬にして日本語にしてくれる。WebでみたらGoogle translatorは133言語間の翻訳と書いてあった。もう英語は苦手でとか、スペイン語はちょっと……言い訳が通らない時代になった。
2023/1/7