聞くと話すが先で読むと書くは後(改版)

もう四十年以上まえになるが、スペイン語をかじってみるかと夕方のクラスに通ったことがある。それはアメリカだったからで、まさか日本でそのクラスと似たようなことを、それもトルコ語で経験することになるとは思いもよらなかった。スペイン語をと思ったことから、クラスの授業のありよう、そして今トルコ語を自習しながら、こういうことなんだという思いに至ったことをざっとまとめてみた。数十年も続けてきた英語の独習では気づかなかったのに、たかが半年のトルコ語で、なんとなく靄が晴れたような気がしている。なんとも説明のつかない不思議な感覚に、ちょっと戸惑っている。

七十七年、ニューヨークにある孫会社にとばされて、毎週のようにミネソタやネブラスカまで機械の据え付けや修理に走り回っていた。工場から隔離された研究所にいたこともあって、工場で生産されていた現行機種のこともしらなかったし、英語なんかまともに勉強したこともなかった。自社工場での仕事なら、人も含めてなんでも揃っているが、客にいってのフィールドサービスは、現場に行ってみなければ分からない。そんな出たとこ勝負も一年もやってれば、それなりにしても慣れてくる。ある金曜日の夕方、ボストンの面倒な客で予定より二日も多くかけてやっと修理を終えた。月曜に事務所で準備して火曜から二社回るスケジュールをまた崩してしまった。上司に作業完了の報告しなければならないが、また叱られるのかと気がおもい。

電話をとったフィールドサービス部隊のマネージャの口調がいつもと違う。なにかおかしい。なんでと思っていたら、口ごもりながら副社長に電話をまわされた。事務所で新聞を読んでいるだけの副社長と話すことなんかありゃしない。なんのことか思っていたら、開口一番、ピッツバーグかデトロイトにでもという軽い調子で言われた。
「月曜から、ちょっとメキシコにいってこい。据え付け一台と修理一台だ。二週間もあれば十分だろ」
電話口でえっと思っているのを感じたのだろう。
「もう銀行も締まってるし、お前現金ないだろう。当座の現金とフライトチケットは用意してあるから、明日にでも俺んちに取りに来い」
メキシコ?そんな名前の客、あったかなと思いながら訊いたら、
「バカ、メキシコだ、メキシコ。メキシコ・シティとテキサスとの国境の近くにある客だ」
「ビザなんかとってられないから観光客の格好でいけ。工具や組立図なんか持ってくな」
上司は唐突に言われた出張を自分の口から言いたくないから、電話をまわしたんだろう。上に阿ることにはマメなのに、実務ではいない方がいい副社長だった。あんたが日程もたてずにほったらかしておいたから、工具も持たずに出張になったんだろうとしか思えなかった。副社長がからむと、ろくなことがない。

貧民街の使われないまま放置されていた駐車場に据え付けることになった。なんで工場にじゃないんだと聞いたら、スペースがないと平然と言われた。屋根が途中までしかない吹きっさらしのところに最新鋭のCNCを搭載した旋盤を設置したら、何ヵ月もしないうちにトラブル。機械屋の常識が通用しない。ふつうだったら、どの客にもある設備もなければ、なければ仕事にならないドライバーやスパナもなにもない。三週間かけて這う這うの体で帰って来た。

メキシコ・シティで過ごした三週間がスペイン語?をと思いだすきっかけだった。
英語は、日常生活や仕事をこなすまでならなんとでもなってきていたこともあって、興味半分、スペイン語をかじっておくもの悪くはないと思った。そんなことを話していたら、経理部のセクレタリーが地域の高校で開かれるスペイン語の成人向けクラスを探してきてくれた。ボランティアの先生が教えていた。授業料は一回ニドル。ただみたいなもので、二ドルじゃマックも食えない。スペイン語を勉強するのだからと、五年ほど前にちょっとしたことから買った西和・和西事典をもって初授業に行って驚いた。

先生が教室中を走り回ってドアや窓を開けたり閉めたり、結婚指輪を外したりつけたり……、身振り手振りで言わんとしていることを示しながらスペイン語で言う。何度も同じことを繰り返して言う。そして生徒にそれと同じことをオウム返しに言うことを求める。一つの言い方の目処がつけば、その延長線というのか、派生的な言い方が続く。その間中、黒板の前で派手なジェスチャ−をしていることもあれば、困っている生徒のところに足早にきて、先生が言う、生徒に言わせるを納得するまで繰り返す。教えるのが楽しくてしょうがないといった風情でニコニコしながらあっちに行ったりこっち来たり、忙しい先生だった。強圧的なところもなければ、上から下にという日本人にありがちな先生らしさもない。そこにあったのはスペイン語を習得して欲しいという熱意だけだった。
授業中、英語は禁止。スペイン語だけが許される。メモやノートを取ることも、辞書を引くことも許されない。一度辞書を引いているのを見つかって、スペイン語で多分辞書はダメと言われた。今風の言い方で言えば、テンションの高い二時間があっという間に過ぎてゆく。休憩時間には英語で先生と生徒ではなく、どこでもある大人の話になるが、授業を始めれば、またほとばしる熱意のスペイン語になる。

教科書もなければプリントもない。辞書もノートも使わせない。黒板も使わない。文字を見ることもない。ただ聞く。そして聞いたことをオウム返しに口にするだけの授業。それは教養ではない、実用のスペイン語を習得するための授業だった。
日本で教科書も辞書もノートも持たずに授業にでたらどうなるか。間違いなく厳しい指導を受けることになると思う。そこにあるのは、教養としての外国語の勉強であって、日常生活で使える能力を培うものじゃない。

二〇二〇年の春、二ヵ月にわたってコロナ禍で図書館が閉鎖された。読む本がなくなって、どうしたものかと考えた末、いい年をしてトルコ語でもやっておくかと始めた。中国がでてきているところでロシアが後退すれば中央アジアがうごきだす。トルコ語が分かるようになれば、英語では手にし得ない情報もえられると考えてのことだった。
教材も辞書も英語をベースにしたものなら、ネットにいくらでもある。Googleであれこれ探して始めてはみたものの、まるで中学校で使わされた英語の教科書のような体裁のサイトばかりで、勉強はできても使えるトルコ語にはならない。検定試験を受けるわけでもあるまいし、受験英語のトルコ語版は勘弁してくれと思いながらも、あれこれ夏までつきあった。古希もすぎて、こんなことやってられるかと放りだしそうになったが、意地もあって踏ん切りがつかなかった。Googleで漁っていて、これならというサイトを見つけた。Duolingoという名のサイトで八月から毎日かかさず続けている。Duolingoには、ニューヨークのスペイン語の授業をインターネット上に作り上げた感がある。

ちょっと後ろにひいて、言葉の習得について考えてみれば、当たり前の景色が見える。この当たり前の景色を見えなくしているのが日本の英語教育の惨状といっていいだろう。若い人たちの貴重な時間をムダにする、成果のあがりようのない教育体制がどんと腰を据えていて微動だにしない。最近はTOEICを選択する企業や人が増えてはいるが、未だに実用にならない「実用英語検定」という学校英語の延長線でしか考えられない社会人がいる。なぜそんなことが続いているのか?つらつら考えていくと、実用の英語教育を提供する意思もなければ能力もない人たちの利権のせいじゃないかとしか思えない。
ほとんど独学でやってきた英語の習得から、こういうことなんだろうと思っていることで、権威筋から厳しい叱責を受ける可能性がある。つまらない体験からのことだが、間違っているとは思わない。

日本語は子音に母音が続くかたちで構成されている。そして文字で表記される母音が五つしかないことも災いしてか、子音だけの語があることを生理的に想像できない、あるいはしにくい。英語のthやv、f……は、表音文字のカタカナをもってしても表記できない。日本語でもそうなのだが、外国語は「言葉」ではなく、「音」だと思いきってしまったほうがいい。
そして積極的に「恥知らず」にならなければならない。日本語ですら完璧はありえない。ましてや外国語ともなれば、かならず間違える。そんな言い方はしないということを言ってしまうのを避けられない。間違いを恐れない勇気のようなものが必須になる。

素人が勝手に考えていることでしかないが、ことばには四つの要素がある。まず第一に「聞く」、そして第二が「話す」。「聞く」がなければ、「話す」はない。聴力障害の方々は話すのが難しいことが、この順序を証明している。まず「聞く」そして「話すー声にだして言う」ことが言葉の始まりと考えて間違いないと思う。
文字の発明はたかだか五千五百年ほど前のことで、それまでは「聞く」と「話す」の二つだけだった。文字ができて記録できるようになったが、見たこともない文字は書けないから「読む」のが先で「書く」のは後になる。
文法なんてのは、街でみんなが話している、書いている文章を解析して、構文のルールを探って規則性を見出す作業を続けて、整理したものに過ぎない。文法の本は、必要に応じて、規則性を確認するためにリファレンスとしてあればいい。辞書も教科書も文法の本もWebの方が、逆引きできるので使い勝手がいい。

先にも書いたが、言葉は本来耳と口から始まって、文字を書いたり読んだりはその後のはず。外国語(英語)の習得に読み書きが主体で、耳と口は後回しというのがおかしい。もっとも、日常の実用は不要、教養のためというのであれば話は別だが。その別の話で先生と崇められ、メシを食っている人たちが権威と権利……、日本人が英語を習得できないわけがここにある、といったらいいすぎか?
今の日本で「聞くと話すが先で読むと書くは後」をしようとしても、それを実現できる教師がどれだけいるのか?もしそれを実施したら、どれほどの教師が教師として残れるのか?答えは明らかでどちらも疑問じゃないだろう。

p.s.
<目的と手段>
これは大事なことだと思っているが、入試の試験科目の国語、算数、英語は情報や知識を習得するための基礎能力(昔でいう読み書きそろばん)を培うもので、その学科を専門とする研究者か先生以外の巷の人たちにとっては手段―ツールにすぎない。そのツールを駆使して社会や理科を理解するのが本来の目的のはずだろう。

<Duolingo>
GoogleでDuolingoと入力して検索すれば、日本語の紹介サイトまで出てくる。入門のちょっと先までなら、無料で使えるから、ものは試しで使ってみたらい。英語をやってるわけじゃないから、どのようなスタイルになっているのか見てないが、トルコ語と似たような、あるいはもうちょっと洗練されているかもしれない。Duolingoのトルコ語にでてくる英語には、少なくともアメリカではそんな言い方はしないというのが結構でてくる。
二三日でいいから英語のDuolingoを体験すれば、奇形化した日本の英語教育を確認できる。誰が誰のために奇形化してきたのか?
2023/2/11