プロパガンダを真に受けて(改版)

学校帰りに武蔵境駅を降りて、北口にあった本屋でずっと気にしていた「世界」を買った。田無でさがしたが、世界がおいてある本屋はなかった。オヤジの新聞は朝日だ、雑誌は世界だというのを聞いていて、世界を読めるようにならなければという思いがあってのことだが、高専の四年生、十九歳には重すぎた。三ヵ月かけてもほとんど読めなかった。

七十二年に卒業して日立精機に入社した。柏の独身寮ではじめて自分の部屋をもてた。五月に誕生日を迎えて二十一歳になった。仕事も寮生活も慣れないことが多かったが、初夏を迎えるころには茶飲み道具もそろって生活も落ち着きはじめた。環境になれる段階もすぎて、自分の意思でしたいことをする気もちの余裕が生まれて、そろそろ定期購読も手配しなければと、週末管理人室にお邪魔した。二人掛けのソファのテーブルには月間誌「丸」が何冊か重ねてあった。新聞ラックには産経新聞と日経新聞が下がっていた。丸も新聞も寮監が個人のこのみだけで購読しているわけじゃない。後日活動家の一人から、あのオヤジ自衛隊上りで、オレたちの日常生活を監視しているから気をつけろ。誰が何曜日と何曜日の帰りが遅いというようなことまでチェックして労務に報告しているはずだからと注意された。朝日新聞はまだしも、世界の購読はみずから要注意新入社員ですと言っているようなものだった。

工作機械業界のなんたるやも知らずに工作機械の技術屋を目指したが、入社していくらもたたないうちに、工作機械業界のすぐ先に軍需産業があることを知った。鉄を削る機械なしには、大砲も戦車も飛行機も砲弾もミサイルも作れない。日立精機は戦前から続く名門軍需産業の一社だった。
工場で働く人たちに混じって新卒の研修をうけながら、ご用組合の事務所に寄っては、労組の幹部や青年婦人部の人たちの話を聞いていた。社会も経済も何も知らなかったが、なんとなくにしても社会に一歩足を踏み入れということなのだろう、二年前にはほとんど読めなかった世界がだんだん読めるようになっていった。自分でも不思議な感覚だった。五年後、七十七年にニューヨークに左遷されたが、日本の本屋に頼んで世界を取り寄せてもらった。
三十半ばになっても政治や経済や社会に関する基礎知識のほとんどが世界からのものだった。『経済学批判』も『資本論』も署名を忘れてしまったがルカーチの本もマルエン全集のいくつかは読んだが、それらを読むのに必須の日本語の能力と知識を世界から得ていた。言ってみれば世界が政治・経済・社会の教科書的存在だった。高専で機械工学の詰め込み教育で視野狭窄に乱視が重なって、エンジニアリングに関係するとことは見えても、人文系のことは視野の隅にたまった埃のようになっていた。

当時というより今でもそうだろうが、社会人になるというのは会社人になるのとほんど同義語で、日常生活の実体験からでは社会はみえない。その見えない社会を「世界」を通してみようとしていた。木口小平の一ページの短いエッセー?には、成熟した大人の風格があった。ある日オヤジに木口小平のエッセーについて話したら、「ばか、そりゃペンネームだ。ラッパの木口小平を知らないのか」と言われた。数ヶ月おきに掲載された藤村信の「パリ通信」は驚きの連続だった。朝日新聞やテレビのニュースが子ども新聞のように見えだした。そして毎月掲載されていたT・K生の「韓国からの通信」は読むたびに、なんという国だ政治だと思っていた。そんなところに、北朝鮮を賞賛する論文?が連載された。韓国の惨状を読んでいるだけに、こんな社会や政治もあるんだと憧れた。四十過ぎてもその憧れの残骸がしぶとく残っていた。

アメリカの制御機器屋で市場開拓部隊を作り上げていたとき、アプリケーションエンジニアだった在日二世を引き抜いた。ある日、韓国の話から北朝鮮の話に転がって、金日成の業績について話したとたん、目の色が変わった。何を馬鹿なこと言ってると罵倒された。それでも世界から得た知識から主体思想や千里馬精神をと思ったが、これほどのバカはみたことがないという顔をされた。工作機械屋ですごした三十二歳までの経験と「世界」を通して知り得たことが、四十を過ぎてそのままあっているとも思っていなかったが、在日二世の話と自分の理解には恐ろしいほどのギャップがあった。

「世界」が社会に対する唯一の窓だった時代は自分のなかでは終わっていたが、二十代に受けた影響は抜きがたい染みのように残っていた。いったいあの論文もどきを書いたのは誰だったんだろうと思っていた。それが偶然のことから分かった。
バルザックを読めずに落ち込んだあと、安岡章太郎で口直しをしたが痺れが残っているようで、ここは一つ堀田善衛でも読みかえすかと思った。適当なものはないかと探していたら、ご息女が書かれた『ただの文士 父、堀田善衛のこと』堀田百合子著が見つかった。早速図書館で借りて来て読みはじめた。そこに論文もどきの著者が登場した。

P81
一九六五年八月、父とともに、ゴヤの生地フエンデトードス村を訪ねました。パリから、西川潤夫妻の車に同乗して四人旅でした。父、二度目のスペイン。今回はスペイン全土のゴヤさんの絵、ゆかりの地を本気で取材するためでした。西川潤氏(早稲田大学名誉教授)は、当時パリ大学高等学術研究院に留学中で、A・A作家会議のフランス語通訳として、父とともにアルジェリアにもご一緒したのでした。そして夏休みを利用して、父のゴヤ取材に付き合ってくださり、車の運転もしてくださったのです。

西川潤氏(早稲田大学名誉教授)?どんな立派な方なのだろうとウィキペディアを見たら、下記の記述があった。
<人物>
1971年に、「北朝鮮の経済的・社会的発展は人類歴史上類を見ないひとつの奇跡」と『世界』に執筆した。また、在日朝鮮人の帰還事業に対して「日本で失業状態にあった帰国者たちは本当に極楽浄土に安着したと言える」という北朝鮮訪問記も『世界』に執筆した[要出典]。韓相一(国民大学校政治外交学科教授)は「金日成をまるで神さまであるかのようにおだて、朴正煕は狂人や獣のように扱った」と批判している。

あの論文の主は西川潤という人だったんだ。でも七十一年?と思いながら、ウィキペディアの記載を元に岩波書店に問い合わせた。
記載の真偽は分かりません。掲載などなかったら、お手数をおかけし、申し訳ございません。
1971年に、「北朝鮮の経済的・社会的発展は人類歴史上類を見ないひとつの奇跡」と『世界』に執筆した。
<1971年の何月号に掲載されたのでしょうか?>
また、在日朝鮮人の帰還事業に対して「日本で失業状態にあった帰国者たちは本当に極楽浄土に安着したと言える」という北朝鮮訪問記も『世界』に執筆した。
<何年の何月号の『世界』に掲載されたのでしょうか?>
上記<>内につき、教えて頂けますよう、お願いします。

数日後に岩波書店から下記の返信を頂戴した。
お問い合わせありがとうございます。「世界」編集部です。
日頃本誌をご愛読いただき、ありがとうございます。
西川潤先生の記事ですが、1976年2月号から6月号に「北朝鮮の経済」と題した短期連載をご寄稿されています。
また、在日朝鮮人の方の帰還事業についても上記の連載内で述べられています。
岩波書店「世界」編集部

ウィキペディアの記載とちょっと違うが、連絡いただいた世界の蔵書について豊島区立図書館で訊いたら、大田区図書館に蔵書があるととのことで、貸出手配をお願いした。
二週間ほどかかかったが、二月号と三月号を借り出した。四十六年前の雑誌、まるで青春の赤さびのように変色していた。二月号の目次を見て、時代だったなという思いがした。藤村信の「スペイン―青の時代」、「無感覚の時代」―韓国からの通信…T・K生もあった。そのすぐ隣に「北朝鮮の経済発展」と題した西川潤の、そして金日成の「革命と建設の道程」まであった。
こうなったら、あのバカバカしいプロパガンダの証拠として全部書き写してやると意気込んでいた。はじめにから書き写し始めて、すぐに止めた。こんなものを真に受けていた自分が情けない。人生の残り少ない時間をこれ以上くだらないプロパガンダに割く気にはなれない。三月号は開くこともなく返却した。

書き写した二月号の目次とはじめには下記の通り。
北朝鮮の経済発展(I) 西川潤 「世界1976年2月号」
第一部 自立的民族経済の形成
1植民地的経済構造
(1) 土地制度の近代化=封建化
(2) 経済のモノカルチャア化と対外依存化
(3) 奇形的な工業発展
(4) 民族文化の破壊
2千里馬精神による発展
(1) 経済成長の動態
(2) 民主的諸改革
(3) 戦争と社会主義改造
(4) 工業化の過程
(5) 三大革命と十大展望目標
3統一と主体思想
1主体思想と過渡期の理論
2統一の展望
3朝鮮革命と世界革命

はじめに
朝鮮民主主義人民共和国を訪れる者は、緑の中に埋もれるような広々としたピョンヤン市、その中心に林立するそれぞれデザインや色彩の異なる高層アパート群、東海岸に連なる重化学部門の大コンビナート、造船所、一万トン容量の冷蔵室、道路から随所に見える白壁の清潔な農村と家畜・家禽工場の集合、整った灌漑施設とスプリンクラーの放列、畑を走り回るトラクター、そして道行く小ざっぱりした色彩豊かな服装の人々に目を見張る。この国が、開発途上国という観念で行くと、どうも勝ってが違うのである。
そして回っているうちに、都市でも農村でも、衣食住に関する基本的な必要と文化、教育、医療、託児、交通施設などはどこでも整っており、失業や物乞い(東欧の一部の国ではまだ見られる)は姿を消していることに気がつく。社会主義国で馴染の配給行列も見られない。この国は既に立派な工業国であり、しかも外国に依存せず工業化を遂行すると共に、工農の同時発展と社会的諸格差の縮小と民衆生活の向上をはかるきわめてユニークな発展路線を歩んでいる国であることがだんだん理解されてくる。
この国が二〇世紀初頭以来、三六年間日本の植民地と化して経済構造の奇形化と民衆の絶対的貧困化の状態が進展してきたこと、そして解放後四年間にわたる熾烈に戦われた朝鮮戦争によって見わたすかぎり焼野原と化し、国民生産も大きく低落したこと、を考えると、今日の北朝鮮の経済的社会的な発展は奇蹟というしかない。この「奇蹟」はしかし、多くの困難に直面しつつ金日成主席ら朝鮮労働党の指導者たちが発揮してきた強靭なイェシチアブと朝鮮民衆のはらってきたしばしば超人的な叙事詩的努力に負うものである。
本稿では、この社会主義的建設の過程を包括的にのべることはできないが、問題を経済面に限って、今日の北朝鮮における国民経済の循環構造がいかに形成されたか、それを導く経済思想がどのようなものか、を七五年秋、約二週間に及ぶ共和国滞在のさいに私が理解し得たことを基礎としてまとめたい。
まず第一部「自立的民族経済の形成」においては、植民地的経済構造がどのようなものであったか、そこからの脱却がいかに進められ、その過程で千里馬精神がいかにして出現したか、次いで工業化の過程とそこでの問題点がどのようなものなのか、そして社会主義工業国への転化と現在の経済発展を叙述する。第二部「統一と主体思想」では、こうした経済的建設を導いた主体思想の意味と過渡期の理論、朝鮮民族の悲願ともいえる統一の展望を眺め、そして最後に朝鮮的自立経済をモデルの第三世界に対する意義について考察する。
なお今日、共和国においてはいっさい漢字を使用しておらず、固有名詞は片カナで表記するのが正しい。しかし本稿では、資料の統一と読者の便宜上、漢字と片カナを併用する。

「七五年秋、約二週間に及ぶ共和国滞在のさいに私が理解し得たことを基礎としてまとめたい」とあるが、たかが二週間で?とても人間わざとは思えない。
論文?には、これでもかというほど経済指標の表がでてくるが、人知を超えた、もう神業ともいえるフィールドワークを二週間で終えたということなのか?それとも北朝鮮政府か関係機関が用意したデータをそのまま引用してこのことなのか?
「畑を走り回るトラクター」一つにしても、どのようにしてトラクターが生産されたのかを知ろうとすれば、億の金をかけて数ヶ月では足りない。ディーゼルエンジンだろうからスパーグプラグは要らないが、機械屋の常識からしてシリンダーブロックにシリンダーヘッドやミッションケースは鋳造品で、クランクシャフトやカムシャフトやセンターシャフトは鍛造品だろう。トラクター会社が自社で鋳造工場と鍛造工場をもっているのか、それとも外注なのなか。いずれにしても、機械加工するすべての工作機械を自社で製造しているとは考えられない。それどころか、全ての生産設備を北朝鮮国内で調達できたとも思えない。クランクシャフト旋盤や研削盤はかなり特殊なのだし、ギアを切削するも研削するも専用の機械が必要になる。ピストンは熱膨張した時に断面が出来るだけ真円に近い形状――ちょっと潰れた丸に切削しなければならない。そのためピストン旋盤と呼ばれる特殊な旋盤が用いられる。ましてや精密加工技術の粋ともいえる燃料噴射ポンプともなれば、余程の技術を持たない限り作れない。そもそも機械部品のもととなる鋼材や鋼板は?まさか自社で高炉から二次精錬まで含めて自社製造はないだろう。ベアリングやスプリング、ヘッドランプやタイヤや塗料に運転座席のシートにエンジンオイルは?ボディの溶接機はどうしたのか?ちょっと考えただけでも五十社や六十社ではきかない企業群が直接トラクターの製造に関わってくる。その企業群に物やサービスを提供する企業群もいる。自動車産業で一般に言われるティアワン(Tier1)、ティアツー(Tier2)、ティアスリー(Tier3)と言われるピラミッド構造の頂上に自動車メーカなりトラクターメーカがいる。言い方を変えれば、ピラミッドの下部構造がなければ、自動車メーカもトラクターメーカも成り立たない。
トラクター一台の製造だけをとってみても、そうそう調査できるものではない。ましてや国家レベルの主要産業のありようなど国家の中枢にいる官僚組織でなければ把握のしようがない。

こうして考えていくと、大層立派な先生の論文もどきは、北朝鮮政府なり関連組織が自分たちの都合で作ったデータをもとに分かったような顔をして書いたものとしか思えない。平たく言ってしまえば、知ってか知らずしてかプロパガンダのお先棒を担いだということ以外にはないだろう。もし知ってだとしたらとんでもないインチキ野郎だし、知らなかったとしたら、何が経済学の教授だと言いたくなる。
理工系には実験という検証プロセスが欠かせないが、巷の経済学者のどれほどが自分の足をつかってフィールドワークをする習慣があるのか。時間も金もかかることでおいそれとできることじゃない。いきおいどこかのだれかが作った(しばし都合よく捏造した)データをもとに、ああだのこうだの言ってるだけの人がかなりいそうな気がしてならない。そんなああだこのうだのにのせられて、コロッとだまされるのが馬鹿なんだと言われればその通り。半世紀もたって、それが時代だったんだろうと言い訳がましく思いはするが、プロパガンダのお先棒を担いだヤツには、たとえ故人にしてもという思いがある。

ウィキペデアには西川 潤(にしかわ じゅん、1936年9月22日 - 2018年10月2日[1])と書いてある。ここから計算すると、北朝鮮を訪問したのが七五年秋、誕生日を過ぎていれば三九歳。世界に論文もどきの連載が始まったのが七六年二月で四〇歳。掲載が始まってから八二歳で没するまでに四〇年もの年月がある。その間にインターネットも普及して北朝鮮の実状が広く知られるようになった。知られるようになった北朝鮮の実状と論文もどきに書かれたことのとんでもない乖離をどのように説明してきたのか。それともただほっかむりしてきたのか。
もし二〇〇〇年頃に再び北朝鮮にまねかれて、また見せたいものを見せられて聞かせたいことを聞かされたら、七六年の論文もどきと似たようなことを書いたんじゃないか、あるいは七六年の論文もどきに言及したうえで、それを覆すようなことを書く勇気があるのか。インターネット上に溢れる北朝鮮に関する情報はアメリカをはじめとする資本主義国の悪意に満ちたプロパガンダだと一蹴する蛮勇があるとも思えないが、気になってしょうがない。なにしろ立派な大先生のやることだから、巷のチンピラには分かりっこないのかもしれないが。

当時の「世界」と今の「世界」は違うと思うが、当時の自分と今の自分の違いほどの違いはないんじゃないかと思っている。インターネットで情報が取りやすくなったはいいが、その分今のプロパガンダに右往左往しているかもしれないと思うと怖ろしくなる。曲学阿世の徒はいつでもどこでも大手を振るってあるいている。巷でちやほやされている学者や文化人の言をそのまま真に受けないようしなければと思っている。
2022/11/2