英語だからって変わるわけじゃない(改版)

いつものようにいつもがあれば、何もかもが当たり前の風景のようになって、何かに気がつくこともない。いつもでないことに出会って、はじめていつもではないこともあるということに気づく。

随分年もいってからそういうことだったかと気がついたのだが、小学校一年の三学期にあわせて町屋から田無に引っ越したとき、はじめてカルチャーショックを味わった。クラスで飛び交う言葉のいくつもが聞いたことがないものだった。「ひ」が言えなくて笑われた。「潮干狩り」は「しおしがり」だったし、「百円」は「しゃくえん」だった。まだ七歳、いくもしないうちに田無の言葉になった。
二十歳で就職した日立精機は千葉県我孫子市一番地にあった。我孫子あたりに住んでいる人たちは東京にでていってしまう。我孫子にとどまるということは、かなり在に住んでいて東京まででるのが大変だということに他ならない。事務や設計は茨木弁が交じる程度だったが、工場内は茨木弁であふれていて何を言われているのかわからなかった。実習でお世話になった班長になんどか「わからないのか」とどなられたが、ペアになった岡山高専卒の同期も同じで、腹の中では「あんたの、そのべちゃべちゃの茨木弁がわからないんだよ」と思っていた。出張で大阪や名古屋にいっては言葉の違いに驚いた。

二十代の後半にニューヨークに駐在して、三十半ばで転職してからは頻繁にクリーブランドとミルウォーキーにでかけた。アレン・ブラッドリーは、日本のビジネス構造を知らずに、顧客である重機械工業が集積している関西―大阪に支社を設けた。その後日本の会社との合弁事業に展開するにあたって、日本支社の本社を東京に移した。そんなこともあって、本社の中では関西弁が行き交っていた。
ある日、大阪支店の営業マンと同行訪問するために、九時ちょっと前に大阪支店の前で事務の女性が出社してくるのを待っていた。どうせ事務所をでるのは十時すぎなんだから、ゆっくり出て行けばいいのに、つまらない性分で遅刻が怖くてそれができない。
いつものように空き机にPCを開いてメールを処理していたら、机の向こうから「ほんなら、いきまっか」と営業マンの声が聞こえた。PCの電源を落として立ち上がったら、「ええネクタイやんか、なんぼしたん」と訊かれた。一瞬何をいわれているのか分からなかった。東京では、どこで買ったのかまでは訊けるが、いくらしたとは訊けない。お里が知れる。「えろう高いんやな。なんぼ値切ったん」なんと答えたものかとちょっと考え込んだ。カメラや家電ならいざ知らず、東京にはデパートで数千円のネクタイを買うときに値切るという文化――個人の習慣ではない――がない。ささいなことかと思う人も多いだろうが、東京と関西では何を体裁と思うかが違う。

日本は民族的、文化的に均一性の高い国だが、それでも地方固有の歴史に培われた文化もあれば気質もある。小さな島国で長く海外との交流が閉ざされていた時代が幸いして日本の日本が、誇るべき日本がしっかりある。一方アメリカは建国二百年そこそこの新しい国で多人種、多文化から始まっていて、いまだにアメリカという国にまとめる作業をし続けている。なにもかもが種々雑多、習慣も違えば常識も違う。その違いは日本の感覚からすれば桁外れで、たまげることも多い。

日本人同士でも、それぞれが常識だと思っていることからはみ出て、相手に対する違和感が尾を引くことがある。これがアメリカ人との話では、はみ出るというレベルを超えて異文化同士のぶつかり合いの様相を呈することがある。お互いの常識の間のズレが大きすぎて、一つの常識――たとえそれがあちこちで違いがあるにせよ――があるものだという前提をいったんキャンセルして、常識とはそれぞれの歴史や文化に基づいて、いくつもあるものだと割り切ってしまったほうがいいと思うことがある。
アメリカ人との議論では、日本人同士の会話のように共通の常識にもとづいて意を汲む、あるいは察するのを期待するのは、都合のいいように解釈される可能性を丸呑みにしてのことだと思ったほうがいい。こっちの常識があっちの常識とあっているはずという前提が成り立たない。

最近のニュースから一つ例をあげておく。
大統領選挙での敗北を認めず、嘘八百をならべたてて、支持者が連邦議会に乱入したことなどから訴えられて、ついにトランプが法定に出廷した。八月四日付けのThe Hillによれば、それをみてトランプ支持者が下記のように言っている。
「GOP allies argue Trump can’t get fair trial from Obama appointee in DC」
https://thehill.com/homenews/senate/4136627-trump-allies-argue-he-cant-get-fair-trial-from-obama-appointee-in-dc/

「D.C.連邦地裁の勝算はトランプ氏に不利であり、有罪評決は正当性に欠けると言う共和党員が増えている」
「共和党員、ましてやアメリカ第一主義の共和党員であれば、ワシントンDCの裁判官とワシントンDCの陪審員のもとで、公正な裁判を受けられるとは到底思えない」
「バイデン大統領は2020年の選挙で92%以上の得票率でワシントンD.C.を担ぎ、トランプ氏はわずか5%の得票率だった。2016年のワシントンD.C.では、クリントンが91%近い得票率でトランプを破っている」
「トランプは水曜日、裁判をウェストバージニア州に移すよう求めた。ウェストバージニア州は、彼が2020年に29%の得票率で支持した州である」

何を言ってるんだと思う人も多いだろうが、アメリカでは、ましてやトランプ支持者にしてみれば、常識でしかない。言っている人たちもバカじゃない。逆の可能性があることを承知のうえで、都度ごとに自分(たち)に都合のいい部分の常識を持ち出して来る。
極端な言い方をすれば、アメリカ民主主義は自警団から始まっていて、おらが町の議会でありで警察であり裁判所で、陪審員はおらが町の人たちで成り立っている。この常識で押してこられたとき、「はい、そうですよね、でも……」と日本流に受けたら、「そうなら、そうしなきゃおかしいだろうと」押し切られる可能性がある。あんたの言うのもわかるけどという前向上は、相手の主張に同意すること意味する。
村おこしや地域コミュニティから地方自治……を耳にすることがあるが、それがそのまま民主主義を保証するものではないという一つの例でもある。

歴史も違えば、文化も常識も異なるうえに日本語と英語のなりたちの違いが意思の疎通を妨げる。高文脈言語の典型と言われる日本語では前後から言わんとしていることを察するのが当たり前のようにされるが、低文脈言語の英語では高文脈言語のように状況から推察するはずという前提がなりたたない。一つひとつ誤解を避けるために、できるかぎり明確な単語の選択と平坦で明瞭な文章をこころがけなければならない。誤解されるはずはないと自信をもって言っていることでも文化の違いから、常に都合のいいほうに解釈される可能性が残っている。

四十代の半ば、アメリカの会社の日本法人で日米共同開発プロジェクトの一端を仕切っていたことがある。日本人同士であれば、ツーと言えばカーで通ってしまうことでも、アメリカ人と英語でとなると、使う言葉の常識としての定義から、プロジェクトのおかれた状況から生じる特異な定義まで含めて、言葉を慎重に選びながらの話しになる。誤解されることのないように、後になって都合のいい言い逃れをされないように、能力の限りを尽くしての話しになる。いきおい、いくら穏やかな口調につとめても、毅然とした話し方になってしまうのをさけられない。

そんな毎日に明け暮れていたとき、減らず口の絶えない一回り以上違う若い同僚たちからよく似たようなことを言われた。
「日本語のときはどこにでもいるフツーのオヤジなのに、英語になったとたん別人なんだよな、このオヤジは……」
英語をそのまま日本語にすると、主語や目的語が表にですぎて通りの悪い、必要以上にくどい日本語になってしまう。右を向いて意識して曖昧模糊な日本語を心掛け、左を向いて気の抜けのない英語でを無意識にしていると何かがおかしくなる。

生来のぼんやりした日本語で考えている自分と神経をすり減らすように規定しないと仕事にならない自分のかみ合わせがきしみ出す。根柢にある生理現象と、仕事でもまれた過程で生まれてきた生理現象の境界が波のように揺れ動いているのを感じる。へんな日本語になった英語を見聞きすると、日本語にしておけばいいものをと思いながら揺れが大きくなる。
白黒ぼんやりしておいたほうがいいときと、白黒はっきりさせないと生きていけない状態におかれているときの違いがあるだけで、いつもの自分でることに変わりはない。それは日本語でも英語でも同じでいつもの自分で何も変わりはない。

p.s.
<英語になると変わるひともいる>
英語になった途端、口調どころか、声のピッチまで変える人がいるのには驚く。いったいどういう神経をしているのだろうと不思議でならない。そんなに口をこわばらしていたら疲れてしょうがない。たまに話すのならいいけど、毎日というわけにはいかないし、まして一杯はいってでは辛いものがあるだろう。そもそも自分の生の声って自分そのものなのにと思っている。
2023/6/20 初稿
2023/8/6 改版