実年齢と精神年齢―社会は?(改版)

一月六日、小学校の先生が学校で六歳の一年生に銃で撃たれた。銃が氾濫して毎日のように銃撃事件がおきているアメリカでも、まさか小学一年生がということなのだろう、かなりの数の新聞やニュースサイトがとりあげていた。目にしたかぎりでしかないが、下記AP電がもっとも詳しく起きたことを解説している。
『Teacher shot by 6-year-old student files $40 million lawsuit』
DeepLで機械翻訳すると、『6歳の生徒に撃たれた教師が4,000万ドルの訴訟を起こす』になる。
https://apnews.com/article/student-shoots-teacher-newport-news-lawsuit-1a4d35b6894fbad827884ca7d2f3c7cc?user_email=885991de1e0bc543407be9533f0f209b031a7c7d8ec7be89dfefe40606c169e2&utm_medium=Afternoon_Wire&utm_source=Sailthru&utm_campaign=AfternoonWire_April3_2023&utm_term=Afternoon%20Wire

AP電をメインに何が起きたのかざっとまとめた。
一月六日、ニューポートニュースのリッチネック小学校の一年生担当教師アビー・ズワーナー(二十五歳)が、教室で机に座っているところを一年生のジョン・ドウに撃たれた。
最初の銃弾は左手を貫通し、中接骨と人差し指と親指を砕いてから胸に当たった。手に当たったことが幸いして、胸への衝撃が緩和された。四回もの手術を受け、二週間後に退院した。
アビー・ズワーナーは、学校当局に対して少年が武装し「暴力的な気分」だったという複数の警告を無視したことを過失として四千万ドルの損害賠償を求める訴訟を起こした。

ジョン・ドウの粗暴を問題とし停学させていたが、両親が行動上の問題を抱える他の生徒と一緒になる特別教育クラスに入れることを拒否したことから、昨年の秋復学を認めた経緯がある。
弁護士によれば、使用した銃は母親が合法的に購入したもので、鍵のかかったクローゼットにしまってあった。
担当検事は、少年は幼すぎて法制度を理解できないため、刑事告発しないと言っている。

誰も罪に問われないのかと思っていたら、BBCが三月十四日付けで母親が起訴されたと伝えてきた。
『Mother of 6-year-old who shot Virginia teacher is charged』
DeepLで機械翻訳すると、『バージニア州の教師を撃った6歳児の母親が起訴される』になる。
https://www.bbc.com/news/world-us-canada-65202976

検察は声明の中で、デジャ・テイラー(ジョン・ドウの母親、25歳)が「子供を危険にさらすために装填された銃器を無謀にも放置した」という理由で、重罪の児童放置と軽犯罪で起訴した。

銃の乱射や狙撃事件は毎日のように起きていて、まったくなんて国だと思うことはあっても、もう驚くことはなくった。最高裁が市民の自衛権は憲法で保障されているとしていることから、自衛のために銃を保持するのは当然の権利だという主張が保守層を中心にアメリカの常識となっている。銃が氾濫した社会では教師も護身用の銃を携帯して自衛にあたるべきだとう主張さえ繰り返されている。そんな意識が共有されているアメリカでも、小学一年生の六歳が教師をというのはかなりの反響を呼んだ。

そこまでは事実でしかないし、検事が六歳では幼すぎて裁判というわけにはいかないというのもわかる。気になるのは、六歳では幼過ぎるというのなら、何歳ならという話にならないか?ただ、ことは何歳というところでは終わらない。実年齢が精神年齢を伴っていないこともある。
最近の話では、福岡県田川市での乳児の栄養失調死がある。公判で母親の弁護士が精神年齢を理由の無罪を主張した。
「母親の精神年齢は12歳」初公判で無罪主張 1歳児エアガン“虐待死”「骨折わからなかった」
https://www.fnn.jp/articles/-/322277

法律のことも分からない素人が踏み込むところではないと思うが、責任を問えるかどうかの判断が実年齢のみからされているわけではないことは見聞きしたニュースからも想像できる。Webで漁ったら分かり易い説明がみつかった。
刑事責任能力に関する規定である刑法39条にいう「心神喪失(責任無能力)」および「心神耗弱(限定責任能力)」は法律概念であり、@行為者の「精神の障害」(生物学的方法)とA行為者の当該行為の違法性について(=事物の理非善悪)の「弁識能力」および「制御能力」(心理学的方法)という 2 つの要素を考慮して判断する(混合的方法)のがわが国の通説・判例の立場である。
<引用元>
「知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向」
中京大学法科大学院?准教授
緒方あゆみ

説明は分かる。が、しかしという疑問は消えない。
知的障害はまだ分かりやすいが、生まれと育ちからその日その日を生きなければならなかった人たちの社会の常識が一般社会――法のもとでは犯罪になることも多い。

『ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治著には下記の説明がある。
現在、一般に流通している「知的障害はIQが70未満」という定義は、実は1970年代以降のものです。1950年代の一時期、「知的障害はIQ85未満とする」とされたことがありました。IQ70〜84は、現在では「境界知能」と言われている範疇にあたります。しかし、「知的障害はIQが85未満」とすると、知的障害と判断される人が全体の16%くらいになり、あまりに人数が多すぎる、支援現場の実体に合わない、など様々な理由から、「IQ85未満」から「IQ70未満」に下げられた経緯があります。
ここで気づいて欲しいことがあります。時代によって知的障害の定義が変ったとしても、事実が変るわけではないということを。IQ70〜84の子どもたち、つまり現在でいう境界知能の子どもたちは、依然として存在しているのです。
彼らは知的障害者として同じくしんどさを感じていて、支援を必要としているかもしれません。では、これらの子どもたちはどのくらいいるのでしょうか。知能分布から算定すると、およそ14%いることになります。つまり、現在の標準的な1クラス35名のうち、約5人いることになります。クラスで下から5人程度は、かつての定義なら知的障害に相当していた可能性もあったのです。

『累犯障害者』山本譲司著には下記のくだりがある。
知的障害の判定には、最重度・重度・中度・軽度の四段階があるが、障害者手帳の交付基準でいうと、最重度が知能指数二〇未満、重度が二〇から三四、中度が三五から四九、軽度が五〇から七五となっている。
……
私の経験からすると、軽度の知的障害者というのは、人から言われれば身の回りのことはある程度こなせる。しかし、自分で考え、自ら進んで取りかかるということは、なかなかできない。ものごとの善し悪しも、どれほど理解しているのか分からない。
そんな彼ら彼女でも、罪を犯せば、その責任を問われ、結果的に刑務所に入ることもある。
法務省が毎年発行している『矯正統計年報』に、「新受刑者の知能指数」という項目がある。最新の統計結果、二〇〇四年の数字で例示すると、新受刑者総数三万二〇九〇名のうち七一七二名(全体の約二二%)が知能指数六九以下の受刑者ということになる。測定不能者も一六八七名おり、これを加えると、実に三割弱の受刑者が知的障害者として認定さえるべき人たちなのである。
……
ここで誤解のないように記しておくが、知的障害者がその特徴として犯罪を惹起しやすいのかというと、決してそうではない。知的障害と犯罪動因との医学的因果関係は一切ない。それどころかほとんどの知的障害者は規則や習慣に極めて従順であり、他人との争いごとを好まないのが特徴だ。
ただ、善悪の判断が定かでないため、たまたま反社会的な行動を起こし検挙された場合も、警察の取り調べや法廷において、自分を守る言葉を口述することができない。
反省の言葉もでてこない。したがって、司法の場での心証は至って悪く、実刑判決を受ける可能性が高くなるのだ。そして一度刑務所の中に入ると、福祉との関係が遠退き、あとは悪循環となってしまうケースが多い。

知的障害はまだ分かり易い。責任を問えるかどうかの判断もし得る。問題は知的障害のない健常者であっても、生れや育った環境、そこからどのような社会で何を常識として生きてきたかによって、社会常識も違えば社会観や価値観も、生きてゆくための知恵や言動も大きく違う。スラムで生まれ育った多くの人たちは、今日を生きのびるために良いの悪いのではなく、万引きやかっぱらい、窃盗でも詐欺でもなんでもしなければならないだろう。
まともな学校教育を受けていないにしても知的障害があるわけでもない。生きていくということが社会一般の目でも法律上も違法だというとき、社会は、法は正当にその人たちを社会の法律に基づいて裁くことにどれほどの規範を持ち得るのか?責任を問いうるかどうかは、実年齢でもなければ精神年齢でもない、もう一つおかれた環境も考慮にいれなければと思うのだが、社会が納得するこれと言った明確な判断基準を明示できるか。犯罪のもとには個人の責任だけでなく社会の責任もあるはずだろう。社会は社会の責任を問わなければならない。が、犯罪を問う裁判でそんなことをし得るのか?
2023/4/30