報道写真をみるたびに(改版)

Associated Press(AP)が五月九日付けで、「AP photos from Sri Lanka, Ukraine were Pulitzer finalists」と題したニュースを伝えてきた。
「AP photos from Sri Lanka, Ukraine were Pulitzer finalists」
  https://apnews.com/article/ap-photos-pulitzer-finalists-sri-lanka-ukraine-7452744a756f70f82d61ede90a75f821?user_email=885991de1e0bc543407be9533f0f209b031a7c7d8ec7be89dfefe40606c169e2&utm_medium=Afternoon_Wire&utm_source=Sailthru&utm_campaign=AfternoonWire_May9_2023&utm_term=Afternoon%20Wire

邪魔にはならないだろうから、原文の書き出しと機械翻訳したものを付けておく。さっと目を通してサイトにはいって写真を見て頂ければと思う。英文の説明が気になる方は読めばいいが、写真を見れば、おおよそのことにしてもわかる。解説がなければ分からない写真もあるが、最初に目にした映像から受ける衝撃をくつがえすような説明はなかなかない。

The Associated Press was a finalist in two Pulitzer Prize categories ? for breaking news photography of Sri Lanka’s political crisis, and for feature photography of the elderly in Ukraine.
AP通信は、スリランカの政治危機の速報写真と、ウクライナの高齢者の特集写真の2部門でピューリッツァー賞の最終選考に残りました。
That was in addition to the two Pulitzers AP was awarded on Monday: one for its coverage of the siege of Mariupol, Ukraine; the other for breaking news photography in Ukraine.
これは、APが月曜日に受賞した2つのピュリッツァー賞(1つはウクライナのマリウポル包囲戦の報道、もう1つはウクライナのニュース写真速報)に加えてのものです。

毎日届くAP電には随分助けられてきた。メリハリのきいた記事でNew York TimesやDer Spiegelのように長すぎて疲れることもない。掲載されている写真にはっとさせられることがある。はっとするまでならまだしもギョッとする写真がこれでもかと続くと、腰がひけてしまう。それでも気なって次から次へと目を凝らしてになってしまう。

高専にいっていたころ、銀座のニコンサロンでみたユージン・スミスのピッツバーグに衝撃をうけた。それが報道写真に憧れるきっかけだった。写真は進学祝いにオヤジからカメラをもらったのが始まりだった。五十ミリの標準レンズの使い勝手の悪さに疲れて、三十五ミリを標準にした。バイトで買い足したカメラに二十ミリをつけて上野や浅草にでかけていた。カメラ小僧にうろちょろされるのは気持ちのいいものではない。カメラが氾濫している観光地なら目立たないということからだった。写真部に入って、先輩からいろいろ教えられたが、なるほどと思ったのは数ヶ月だった。インターネットなどない時代、知識の多くは写真雑誌からだった。何も知らずに自己流というまでのこともなく、オレの一枚を求めてやみくもに撮っては現像して紙焼きして、がっかりしていた。三六枚撮り三本四本使っても、四つ切りにのばせるものが一枚もなかった。

高専の詰め込み教育に嫌気がさして、写真の専門学校に行けたらと思い出したのは四年に進級したときだった。都立高校と同じ月謝九百円の高専だからいいようなものの、専門学校なんかにいく金はない。バイトしながらという根性もない。高専からベルトコンベアに乗ったかのように工作機械メーカに就職した。設計部に仮配属されたとき、高専の五年間はなんだったんだと慌てた。何を勉強してきたのか、知識もなければ何の能力もない。時間さえあれば寮で技術の本を読んでいた。とりあえずにしてもつけ刃がほしかった。もう写真なんか撮りに出かけるような元気はなくなった。転職しても仕事で追いまくられる生活で、たまにジャズを聴くぐらいのエネルギーしかのこっていない生活だった。

八十年代なかごろから十三年もお世話になったアメリカの産業用制御機器メーカは、社内インフラにも金をかけていて、ミルウォーキーの本社にはテレビ放送局までもっていた。本社とそれぞれの製品事業部にはカタログや販促資料を作製する部隊までそろっていた。本社のコーポ―レート・コミュニケーションにはビデオクルーまでいて、顧客のサクセス・ストーリーを撮影して世界中の支社や代理店にビデオテープで配布していた。
ある日上司からビデオクルーが来るから、京都の客までつきあってこいといわれた。なんのことかと驚いたが、ゲームファミコンで一躍時代の寵児になった顧客の物流システムの撮影だった。上司が用意した新幹線はグリーン車だったし、なんで帝国ホテルなのかと思いながら迎えにいって驚いた。そこいらのビジネスホテルじゃ持ち込みようのない山のような撮影機材を抱えていた。タクシーのトランクに入りきらない。こんなもの抱えて出張じゃ体がもたない。フェデックスかなにかで客に直送してしまえばいいものをと思いながら訊いた。
「いつもこんなに持って歩いてるのか」
「ビデオカメラはチェックインもできなから、追加料金払ってでも機内持ち込みしかないな。精密機器だから、パーセルサービスなんかに任せたら、間違いなくやられちゃう」
「いつもこうして撮影に走り回ってるのか」
二人で目を合わせて、年長の人懐っこいのが、
「いつもってわけじゃない。月に一回、多いときは二回かな。撮影したあとの編集もあるし、そんなに表に出てるわけにもいかないし」
「撮影も大変だろうけど、あの機材を運ぶだけでも勘弁してほしいな。オレにゃできない」
「そりゃそうだ。こんな仕事、やりたくてやってるやつはいない。もしいたら、そいつはオカシイ」
「だろうな。でももうこの仕事、長いんか」
「うーん、オレがもうすぐ四年で、ラリーお前は」
「オレは二年半を超えたところかな」
「なんでまたこんな大変な仕事を……」
「知らないところにいって、知らないことを知るっていいことだろう」
「でも疲れちゃうだろう」
「確かにな、でもこの仕事は行く先行く先、みんな上手くいってて、ハッピーじゃないか。ハッピーな人を撮影するって、ハッピーをもらえるような気がするだろう。楽しんで仕事して金もらえるんだから、いい仕事ないじゃないか」
「言ってることは分かるけど疲れるな」
笑いながらだったのに、なんか真剣な顔になった。
「マイクもオレも元はテレビ局のビデオクルーだった」
「そりゃまた大変だな。毎日毎日ニュースで走りっぱなしで、そのうち倒れて終わりってことにならないんか」
「そこまで走れればたいしたもんだ。みんなやってて、やんなっちゃうんだ。わかるか」
わかるかって、何がという顔だったのだろう。
「テレビのニュースって、明るいニュースもあるし、きれいな話のこともある。でもほとんどは悲惨な事故とか事件の現場だ。やばくて近寄れないなんてもあるしな……」
「フジサワさん、想像してみてくれよ。交通事故で血だらけ、消火活動で大騒ぎの火事場、洪水で山火事で、ドラッグマフィアの抗争なんてのにでもなったら、特殊手当てもらったってごめんだ。危なくてやってられない」
「オレたちみたいにテレビのビデオクルーやってたのからみたら、この仕事は天国だ」

写真の道にはいったところで、まともな仕事ができるようになる前に挫折していたと思う。美的センスや感性なんてものはこれっぽっちもないし、体力に自信があるわけでもない。二十歳で社会にでて還暦すぎまであれこれの業種を渡り歩いてきたが、技術屋崩れのマーケティング小僧で製造業から抜けたことがない。
悲惨な写真をみるたびにビデオクルーが言っていたことを思い出す。製造業でもセンスを問われることがあるが、一つひとつ積みあげていけばなんとかなる。なんとかなるところでも、便利屋に毛の生えた程度のマーケティング。何があるわけでもなし、そこまででよかったと思っている。
2023/5/15