雑踏のなかの見えない顔(改版)

同僚にブラジルからきた日系二世がいた。いつもラフな服装で外見からではどんな仕事をしているのか分からない。朴訥とした、ある意味典型的なソフトウェアエンジニアだった。十歳以上年下だが入社は先で、サポート部隊の切り札的存在だった。システムハウスでアプリケーションソフトウェアを開発してきた経験が生きていた。メールや電話で聞いた話から顧客の状況を想像する洞察力には想像を超えるものがあった。よくある相談や障害は仲間のサポートエンジニアに任せて、根の深い一筋縄ではいかない障害担当のようになっていた。日本支社では手の出しようのない、開発環境そのもののバグじゃないかというところまで追いかけるような作業でアメリカ本社やインドのソフトウェア部隊とのやり取りもいつものことだった。お互い仕事に集中していることもあって、仕事以外のことで話すことはめったになかった。

外出しないときはいつも同僚と一緒に昼飯に出かけていた。社長の立場で行くぞと声をかけると強制になりかねないから、みんなについていく格好にしていた。七時八時になってそろそろというとき、どうしたものかと気にかかるときがあった。クレーム処理で追われているのを知っているから気が引けるが、忙中閑ありってのもあるじゃないかと思いがする。ただ状況次第で、状況を判断できるのは彼しかいない。アメリカ本社やインドのソフトウェア部隊にしかできないことは振っておいて、それ以外の可能性を一つひとつ潰していく作業で、根を詰めたからといってどうなるものでもない。経験からだが、時には一杯やりながらの世間話からヒントのようなものを拾えることがある。

お互い似たような仕事というのか環境のなかで生きてきたから、余計な言葉はいらない。目と目があって、じゃあって感じで二人で行きつけの飲み屋や蕎麦屋にいっていた。そんなある日、気になっていたことを訊いてみた。個人のことに踏み込むようで控えていたが、気になってしょうがない。
「日本に初めてきたとき、成田について何か違和感のようなものあった?」
もう十年以上前のことで、その時思ってももう記憶もうつろになっているかもしれないし、話したくないこともあるかもしれない。
訊かないほうがよかったことを訊いてしまったと悔いたが、もう遅い。どこを見ているのかという目つきで、ちょっと考え込むような風だった。
「うーん、そうだなー。着いたってことだけで、疲れただけだったかなー。何かあったかなー、なんにもなかったと思うんだけど」
そういいながら、遠くを見ているような目をして、まだ何か考えているようだった。
「そうだなー、なんていうんかなー、なんかみんなおんなじに見えたなー」
「いやおんなじっていうのもへんなんだけど、みんな日本人に見えたな。いやそりゃ一人一人違うんだけど。背の高い人もいれば、年よりも子供もいる。服装もバラバラなんだけど、でもみんなおんなじってのか日本人なんだよ。似たようなというのか、なんといったらいいのかな。ブラジルじゃいろんな人がいるだろう。みんな違うんだ」

彼がどのように感じたかは彼しか、もしかしたら彼もなんと説明していいのか分からないかもしれないが、似たように感じたことがある。病気で手術をしなければならないことが分かって、慌てて駐在を切り上げて帰国したとき、成田でほっとしたというより、ああ帰ってきちゃったという、なにか失ったような気がした。人で溢れかえった狭い通りに朝晩のラッシュアワー、どこもここも人ひとひとだが、誰にも顔がない、ただ標準的というのかある範囲内におさまった人たち、個人個人それぞれのはずなのに、いくら見てもこれといった特徴のないただの人にしか、人の群れにしか見えなかった。

医者に車の運転も控えて家でおとなしくしていろと言われるまで、もって生まれた好奇心にまかせてマンハッタンのあぶなっかしいところを徘徊していた。銃もドラッグも当たり前になっているところでは、いつ何が起きるかわからない。前も後ろも自分の周りにどんな人がいるのか常に注意しているのが普通になっていた。そこは人それぞれが背格好も人種も言葉もみんな違う社会だった。
それが日本に帰ってきたら、あまりに周りに人が多すぎて、注意しきれない。注意する習慣が抜けるまで街を歩くたびに疲れてしょうがなかった。そんな習慣の副産物が周りの人たちを個々の人として見なくなることだった。みんな個人個人違うのに、みんな同じ、一時(いっとき)だけ居合わせたただの物理的存在としての人と人。顔のない人の群れ。その群れのなかに顔のない自分もいる。自分というものの存在感をできる限り消し去った、社会に融け込んだものとしての自分でなければならない。すし詰めの通勤電車のなかで話し声は聞こえない。誰もが周りの人たちに自分の存在を感じられないように工夫する。平和で安全で波風たたない、これといった実感のない日本。何をするわけでも、できるわけでもないし、しようとしちゃいけない、つかみどころのない枠にはめられた日本で、改めて「オレはいったいなんなんだって」思わなくなったら、生物学的なヒトになってしまって、社会のなかの人間じゃなくなるような気がしてならない。
2023年5月27日