NHK子ども科学電話相談に時代をみる(改版)

まず、YouTubeで下記をご覧ください。
NHK子ども科学電話相談で専門家をざわつかせた質問【岡田斗司夫 切り抜き】
https://www.youtube.com/watch?v=1EWux3fKRGI&t=17s

小学五年生の男の子が質問する。
「パキファロサウルスの仲間のホマロケファレは、頭が平べったいから、頭突きには向いていないと思っていたんですが、その頭の役目、というかそういうものを教えてください」
司会のアナウンサーが質問についていけない。
「…はい。パキ?ケサロサウルス?の仲間のホマロケファレね?はい。では、小林先生お願いします」
男の子の質問を受けて、恐竜を専門としてきた小林先生も嬉しいのだろう。男の子と二人だけなら専門用語もまじえてでもいいが、そうすると一般のリスナーがついてこれない。そこは先生、周りの人たちにもわかるように気を配りながら、男の子と話を進める。

夏休みになるとあちこちの博物館で恐竜展なるものが開かれる。特に男の子には人気らしい。なかには館内のショップで恐竜図鑑を手にとる子もいるだろう。そしてそこから、お小遣いでもっと詳しい本を買ってクラスの恐竜博士に育っていく子がでてくる。かつてはここまでだったが、今はそこで止まらない。インターネットが普及して、小学校の高学年ともなれば日常のツールとなっている。子供だけに興味を引かれるものに集中する。それが中学、高校ともなれば、文科省が敷いた学習ステップを大きく越えて進む生徒もでてくる。進学塾や家での勉強で先にすすんでしまった生徒は学校の授業が退屈でならない。先生も教科の面ではもう教えることがない。

極端な例をひとつあげておく。帰国子女の多くが日常生活から学校生活まで日本のやり方に適応するために苦労する。リバースカルチャーショックにもいろいろあるが、地理や歴史では学んできたことが全く違うから、キャッチアップに時間がかかる。国語の熟語や長文読解に手を焼いたまま、受験がままならないこともある。
こうした海外生活のマイナス面もあるが、英語の能力は受験でも社会でも大きな武器になる。広いアメリカで一概にはいえないが、ボストンの郊外の公立の小学校では、五年生から数学が三段階のクラスに分けられていた。日本語でいえば、ゆっくりコースと普通のコース、そしてアドバンスドコースがあった。その背景には、生徒の能力と希望に応じて、もっと勉強したいという子はどんどん先に進むことを奨励する地域社会の文化がある。小学校六年ともなれば、集合など大学の教養課程で学ぶことまで学んでいることも珍しくない。

学校や塾の授業だけでは満足できずにインターネットであれこれ調べるのが当たり前になっている。彼らが見るのは日本語サイトだけでない。英語のサイトまででいけば、科学にしても社会問題にしても、文学でも芸術でも世界の潮流を肌で感じられる。
そんな生徒がクラスにいると、先生としてもやりにくくてしょうがない。英語がほぼネイティブの中学生にとって文科省の定めた教科書を使っての授業は時間のムダにしかならない。大学の教養課程で学ぶ数学まで足を突っ込んだ生徒が中学の算数で収まるわけがない。
大学にでもなれば、英語の不自由な先生より英語に堪能な学生が海外のサイトから最新の情報をもって授業にでてくるだろう。
印刷された文献から得らえる情報には必ず時間遅れがある。日本語の情報だけでは質も量も限りがある。となると、先生が先生としているにはどうしたらいいのか?まさか生徒や学生に教えを乞うわけにもいかないだろう。順当に想像していくと、権威を盾にするしかないんじゃないかと思う。文科省の方針、学会の権威の下で正統派としての授業と講義で、印刷された文献にもとづいて学力を評価する。
中学や高校では内申書が、大学では単位が気になるから、表向きは先生に従順に従わざるをえないだけで、内心は見下している可能性すらある。今日は昨日の明日でない時代、大勢にまじって普通でいること強制するのが社会のありようだとは思えない。

インターネットの世界共通語が英語だということがひとつの敷居になっている。英語まででていける人たちには広い世界が広がっている。そんなことはもう数十年前から起きていることで、今さら何をと思う向きもあるだろう。今、ひとつの革命的なことが起きようとしている。対話型検索エンジンが登場してきた。検索エンジンではGoogleが圧倒的な立場にいる。マイクロソフトの検索エンジンBingは十パーセント程度の市場占有率を維持しているにすぎない。Bingでどうにもならないマイクロソフトが起死回生の一手とチャット機能を付け足したChatGPTなるものを発表した。対話型が実用に耐えない、社会を混乱しかねないとの判断から市場投入を躊躇っていたGoogleが動き出した。

ちょっと考えれば分かると思うが、対話型機能は検索エンジンが収集した情報を人に分かる文章に要約するものでしかない。ということは対話型であろうがなかろうが、収集した情報の質が検索エンジンの性能を決める。
今まではキーワードとして入力したことに関係する検索結果をリストで表示するまでだったのが、対話型と一般に言われている機能を持ち込めば、欲しかった情報はこれですよねって要約文を表示する。
リストされた情報をあれこれ調べて、自分の資料として作成しなければならなかった作業を、対話型検索エンジンがしてくれる。なんとも便利になった(なりつつある)と思うのだが、見る人の立場で何をどう見るかが異なることを忘れちゃいけない。ロシアの諜報機関が探している情報と中学生が探している情報が同じであるはずがない。
何が表示されようが、それをどう読みどう解釈するのは人間で、コンピュータには立場や思い入も夢も希望もなければ野望もない。
ただ、ひとついえるのは中学生どころか小学生でもインターネットを活用して、先生がたの知識を上まわる情報を手にいれるのが、加速的に容易になっている。
内申書を恐れない生徒から、単位の取得を気にしない学生から、知らなかったことを突きつけられたときに、どのような対応をすべきなのか。巷の素人の余計な心配だとは思わないのだが。
2023/6/6