英語は理解しただけじゃ使えない(改版)

Yahooメールを長年使っていることもあって、Yahoo!Japanをポータルサイトにしている。日本語のニュースはYahooニュースとその延長線をさっと流し読みで終わりにしている。いつのまにかそうなってしまっただけで、意識してのことではない。目をひく、これはと身を入れて読まなきゃというニュースに出会うことがないからで、しばし英語のニュースで日本のことを知るという、おかしなことになってしまった。

毎朝、目覚めの紅茶をすすりながら、北米やヨーロッパやアフリカからのニュースを中心にニ、三時間目を通すのが日課になっている。もう仕事や日常生活で英語を使う機会がなくなったから、放っておくとどんどん錆びついてくる。落ちていくのはしょうがないにしても、最低限いつでも使えるようにしておかなければという思いがある。なんだかんだで半世紀以上、英語ということで禄を食んできたのだから、簡単には捨てられない。世界中、こうもばらばらなのかと記事に驚くことはあっても、英語そのもので驚くようなことはめったにない。そんないつもと何もかわらない八月二日、Japan Todayの八月一日付けの記事が目に留まった。
「Japanese high school kids average 12% correct answers in English oral test」
https://japantoday.com/category/national/japan-jr.-high-kids-average-12-correct-answers-in-english-oral-test?
今日、九月二十六日、サイトにアクセスしたら、削除されていた。記事の間違いに気がついたのか?

原文が透けて見える英語をさっとみていった。十二・四パーセントかぁ、まあそんなところだろう、今さらなにをと思いながら、行をくだっていったら、「third-year high schoolers」が出てきた。あれ、一行目には「Third-year junior high students」とあったはずじゃと、見返した。
中学三年生なのか高校三年生なのか、何か読み間違えでもしたかと読み進めていった。中学と高校では話が違う。これは原文、日本語の記事を見てみなきゃと探した。

Googleで検索したら、すぐ二つでてきた。
1) 朝日新聞デジタル記事
「中3英語スピーキング、正答率12% 0点が6割 全国学力調査」
https://www.asahi.com/articles/ASR70552PR7XUTIL01X.html
久永隆一2023年7月31日 17時00分

2) NHK中学「英語」 話す力や書く力に課題 全国学力テスト 結果公表
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230731/k10014147941000.html
2023年7月31日 19時18分

1)、2)の題名からして、Japan Todayのhigh school(高校)は間違いで、junior high school(中学)が正しい。
英文記事の下にc KYODOとあるから、共同通信が発信したものだろうが、もうちょっとしっかりしろよと言いたくなる。

中学とはっきりしたところで、報道された内容について一言、二言言っておきたいことがある。本論に入るまえに、言いたくなるわけをざっと書いておく。ちょっと横道にそれるが、ご容赦を。
中学では喧嘩もズル休みもしょっちゅうの問題児でかなり荒れていた。英語はほとんど勉強せずに高専という名の職業訓練校に進学してしまった。大学受験もない職業訓練校では英語の授業はしていますというものでしかなかった。二十歳で就職して五年後にアメリカ支社(在ニューヨーク)に島流しにされるまで、まともに英語を勉強したことがなかった。ある日突然駐在を命じられて、一週間で荷物をまとめて出て行った。右も左もわからないところで英語もわからない。毎週のように中西部まで機械の修理と据え付けに走り回った。人間関係を上下でしかみようとしない日本人社会から外れてアメリカ人社会に飛び込んでいった。そこで英語を拾って使って間違えて直してを繰り返して英語の基礎を習得していった。帰国後、夕方の英会話教室に通いつづけた。最後は行くところがなくなって、同時通訳の養成校にまで通った。三十過ぎには技術屋としての経験を生かして、技術書類の翻訳屋に転身した。それ以来還暦をすぎてまで、片足を日本において、もう一方をアメリカやアジアやヨーロッパにおいてメシを食ってきた。

横道が長かったがいよいよ本題に入る。記事の主要部を書きうつしておく。
「中3英語スピーキング、正答率12% 0点が6割」
「4年ぶり2回目の実施となった中3の英語では、『聞く、読む、書く、話す』の4技能のうち『話す』の平均正答率が1割強にとどまった。文科省は問題の難易度が高かったと認めつつ、『学習状況に課題があることも明らか。授業改善につながる研修の支援などに取り組む』としている」
「文科省は、2021年4月に全面実施された新学習指導要領に基づき、文法や単語を覚えるだけではなく、実際に英語でコミュニケーションができる能力を育むことを学習目標に掲げる。社会的な話題も英語で理解し、自分の考えを英語で「話す」力を養うことも重視している」
「『話す』テストは、6割の生徒が0点で、平均正答率は12・4%。特に、環境問題に関して、話し手の意見に対する自分の考えや理由を話す問題で平均正答率が4・2%と低かった」

記事には、インターネットを活用して……、対話型AIを使って、AIを……なんて能天気なことも書いてある。先端技術を活用するのは結構、どんどん進めればいい。「学習状況に課題がある」と言っているが、そこにこそ問題の本質―当事者意識の欠如がある。状況が問題なのではなく、そんな状況をつくってきたあんたらに課題があることをわかってんのか?教える側の能力と責任を問わずに英語教育の改善などできるわけがない。英語以外の一般教科がご専門の先生が中学三年生と同じ試験を受けたら、どの程度の成績を得られるのか。まさか零点なんてこともないだろうし、正答率十二・四パーセントこともないだろうが、現役の生徒でもなければ学生でもない先生方、点数は生徒をいくらか超えた程度だろう。となると、英語の先生は何をもってして先生なのかという疑問がでてくる。訊くのが怖くなるし、もし訊かれたらって、俯いている先生も結構いらっしゃるんじゃないかと、失礼ながら想像している。

社会一般の話題で、ネイティブスピーカと笑いながら丁々発止のやりとりをできる先生が中学校にどれほどいるのか?ほんの一握りが現状じゃないのか。一度非常に強い関西訛りの英語を話す英語の先生のお話をお聞きしたことがあるが、イントネーションのズレに疲れて、ついて行くのが辛かった。カタカナのような英語がお国訛りにのってでてくる。このある種シュールな状況、想像つきますかね?

テストの成績の低さの本質的な原因は生徒にではなく、教える側――先生や教育方法をうんぬんしてきたお役人と教育業界にあることぐらいわからないわけでもないだろう。原因は分かっている。原因を解決する能力がないわけでもない。が、解決したくない、しちゃ困ると言うことに尽きるような気がしてならない。
AIなんかなくたって、すでにインターネットでネイティブスピーカのきちんとした英語で話ができるのだから、先生方の何割かの仕事はインターネット上の教材で置き替えられるんじゃないか。置き替えられたら、失業?なんてことにならないか。さらに実用にならない教育体系で禄を食んでいるお役人も教材制作会社も何割かはメシの食い上げになるんじゃないか。
うがった見方で申し訳ないが、自分たちのメシの種を失うようなことをする人や組織って、そうそうあるような気はしないんですけど、どうなんでしょう?先生方とお役人に関係諸氏。

一年ほど前、いい年をしてよしときゃいいのにインターネットの教育サイトDulingoでトルコ語の独習を始めた。知っていた単語はヨーグルトとケバブにアンカラぐらいで、出てくる単語はほぼすべて初見。英語ならナイフやバターなんてカタカナで日本語になった単語もあるが、トルコ語では期待できない。辞書も文法解説書もインターネットで無料。人としての先生はいないが、インターネットでネイティブの話しを聞いて、ソフトウエアで処理してこっちの発音をチェックしてくれる。もうすぐ丸一年になるが、街にでて聞く機会もなければ話す機会もない。先生もいない。中学で英語の勉強を始めた時にくらべれば、条件ははるかに悪い(?)。それでも三年もやれば、なんとかなりそうな気がする。もし、Duolingoで習得したトルコ語が中学で得た英語より、多少でもつかいものなったらと思うと、止めるにやめられない。

英語(に限らず外国語)を習得する――日常的に使えるようになるためには、繰り返し使って訓練しなければならない。理科や社会のように理解すれば、分かればそれで終わりってわけじゃない。野球やサッカーの練習を想像すればいい。シュートやパスの練習を、バントの練習を、同じ動作を何度も何度も繰り返して、何を考えることもなく体が自然に動くようになるまで練習しつづけるだろう?英語を聴くのも話すのもスポーツの練習と似たようなところがある。理解しただけじゃ使えるようにはならない。体に沁み込ませるまでの練習を繰り返して習得するしかない。
他の教科との時間配分という規制があるかぎり、繰り返し練習を実践するのは不可能だろう。限られた時間ですべてを履修するなんてできっこないことを追いかけるのをやめて、基本を繰り返し繰り返して習得すればいい。こみ入った文法や構文なんか後回しにして必要になった時点で各自で勉強するようにしたらいいだけだと思うのだが、教養の英語として網羅しなければならないという強迫観念(失業しないようにという保身?)に縛られている先生方やお役人には受け入れがたいことだろう。
おかげで、サラリーマンを相手にした英会話教室が花盛りだし、幼児むけの英語教室も立派なビジネスに育っている。まさか英語をメシのタネにしている人たち、英語教育業界の成長をはかって棲息の場をひろげるための学校の英語教育なんて思っているんじゃないだろうな?うがった見方だとお叱りを頂戴しかねないが、現状を鳥瞰するとそう見えても不思議じゃないだろう?

p.s.
<逆上がりができなかった>
小学校の二年生から五年生まで同じ担任だった。先生の自由裁量が許されていた時代なのか、男の先生の体育の時間はボールを使ったものだけだった。それが六年生になったら、音楽の女性の先生が担任になった。上から降りて来る教育指針に忠実だったのかどうかわからないが、もしかしたら、土ぼこりをたてて校庭を走り回るのがいやだったのか、マット運動と鉄棒ばかりになった。
鉄棒にはまいった。逆上がりができなかった。というよりどうやれば逆上がりができるのかわからなかった。鉄棒にぶら下がって足を振り上げても逆上がりはできない。できるまでやらせるってことでもあるまいが、土曜日に弁当を持って来させられて、午後男子三人鉄棒にぶら下がって、足を振り上げてを三週間やらされた。ノートを片手に点数をつけていた。三人ともできないんだから、何を評価しているのかと三人で顔を見合わせていた。三人とも運動神経が悪いわけじゃない。サッカーでもソフトボールでもチームの中心にいたのに鉄棒はやったことがなかった。
中学に上がって、美術の時間に写生で校庭にでた。でたはいいけど、なにを描けばいいのか分からない。生徒の自主性まかせの緩い先生で遊びのような時間になっていた。ある日、鉄棒につかまって、何とはなしに腕を縮めて尻を上げたら、逆上がりができてしまった。嬉しさより、なんてこった、あの馬鹿野郎って思った。六年生の担任、自分でも逆上がりなんかできやしなかったろう。できてたなら、腕を縮めて腹を鉄棒に引き上げるようにして尻を上げてというコツを教えることぐらいの頭はもっていたろう。マット運動だって、生徒にはやらせても、自分では見ている(評価というのか?)だけだった。今になって考えると、ピアノかオルガンを弾く指を痛めるのを恐れていたのかもしれない。そんなだったら、担任なんかになるんじゃないって一言言いたくなるじゃないか。
中学の英語の先生たちにも似たようなところがあった。文法を解説するのはいいが、そんなもの参考書にはもっと分かりやすく書いてある。テストをするのもいいが、問題集なんてのは本屋にいけばいくらである。でも英語で訊き、英語で話すは、書く読むのとは違う。テープレコーダーなんて気の利いたもののない時代、ネイティブスピーカの話しを聞いたことなどほとんどないだろうし、ましてや英語で話したことはなかったろう。自分でもできないことを、これといった指導もなしで生徒にかたちながらにやらせて、評価するだけじゃなかったのか?インターネットが普及した今はどれほど違うんだろう。まさか、研修でアメリカのどこかに何週間か行ってましたなんていいだすんじゃないだろうな。クラスには帰国子女までいる時代だ。
生れるのが二十年ほど早すぎた。昭和二十六年五月生れで昭和三十六(一九六四)年に中学に入った。その年東京オリンピックが開催された。まだまだ海外は遠かった。年配の人しかご存知ないだろうが、城達也のジェットストリームもまだ始まっていなかった。
2023/8/5 初稿
2023/9/27 改版