作品?いえ、ただの備忘録で(改版)

還暦もすぎたころ、今までいったい何をしてきたのか、とふと思い出した。日本でいう一般的な社会からとはずいぶん違った世界を渡り歩いてきたような気がする。どこにいっても、そのときそのときの必要に迫られて走り続けてきただけで、なにかこれといったものが残ったような気がしない。才と呼べるようなものもなければ、さしたる知識もない。確たる専門領域もない。いい年をしてわからないことばかりで、どうしたものかと考え込んでいる。このまま一生を終えるのもしゃくにさわる。視野や視点を変えれば、知らなかったことに気づける可能性もあるだろうという思いがつのる。知らなかったこと、気づかなかったことを知らんがために、失礼になりかねないのを心配しながら、場違いなところに出て行くようにしてきた。

部外者というよりほとんど異物のような存在で、行けばちょっとそこまではご勘弁をという疎外感を味わうことになる。でもそれ以上にそこに集まっている人たちにしてみれば、いい迷惑だったろう。お邪魔虫がご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした。こんなところで謝ったところで、なんにもならないが、知らない世界を知るきっかけを下さったことに感謝している。

当たり前のことだが、近隣の領域の人たちの集まりでは、目から鱗のようなことは聞けない。どこにいっても「へー、そういう見方?どうなんでしょうね」や「うん、だからどうしたっての」ことから一歩もでない。いきおい近隣の延長線を大きく超えたところ探しになってしまう。手持ちの知識からでは想像もつかないところの話で、ついていくだけでも辛いことがある。「はぁー、そうなんですか」「ほんとう?」「まさか」までならまだしも、想像し得る限界をはるかに超えた話題のこともある。ちょっと宗教?じみた感のある妖怪の話を一時間近くも聞かされたが、帰りの電車に乗るまでにはぜんぶ忘れていた。桃太郎伝説をあれこれをうかがっても、「へー、そうなんですか」を越えることはない。それでもその関係から雅楽の歴史を知り、生演奏を聴けたことには感謝しかない。話を聞くまで、雅楽は日本固有のものだと思っていた。そして、あれほど説得力のある音楽だとは想像したこともなかった。

あまり遠い世界に出て行っても、情報を受け取る能力がないし、相手にとっては迷惑以外の何物でもないだろうから、近間のちょっと先の外れたところはないかと探している。接点のない人たちのことだから、知り合いの伝手は頼れない。便利な時代になったもので、Webであれこれ漁っていけば、こんなのありなのかというのを見つけられることもある。
こうして恥ずかしながらの文章を書いてはいるが、どうにかこうにかそれなりの文章になってしまう日本語の融通無碍さかげんにほとほとまいっている。そのせいで、この数年、経済や政治や社会からちょっとはみ出て文学系が気になってしょうがない。
Webには、なんとかかんとか読書会というサークルのようなものがいくつも掲載されている。これも経験と、一度住まいから徒歩数分という手軽さから「読書会」なるものにいってみた。出席するには課題書を読んでおかなければならない。幸い薄い文庫本だったが、読みたくもない翻訳本を読んだというか読まされた。数十年前のニューヨークを舞台にした小説だったが、書かれた社会と著者の立場というのか、視点に関する知識がまったくないから、Webで調べながら読んだ。調べてはみたものの、何を言わんとしているのかわからなかった。読書会にいけば、常連さんたちから読み下した話をお聞きできるだろうと期待していた。正直たまげた。誰も全てを知っているわけではない。なにか引っ掛かるものがあれば、調べるしかない。変な言い方になるが、なにか引っ掛かるものがないかという読み方を心がけなければ、せっかくの知る機会を逸する。会に集まった人たち、Webで調べてと言う習慣があるようには見えなかった。一回こっきりの経験で結論を出すのもと思いはするが、読書会はよほどの偶然―既存の知識と新な情報とをつなぐ本という条件が重ならければ、そして集まった人たちから適度な刺激を得られなければ有意なものにはならないと思っている。

そろそろ寝なきゃとベッドに入ってからスマホであれこれサイトを眺めるのが習慣になってしまった。いつものように漁っていたら、文芸サークルなるものが見つかった。コンタクトしたところでイヤな気持ちになって終わるだけだろうと躊躇した。一週間以上サイトを開いては、どうしたものかと考えていた。馬鹿にされるのも異物扱いされるのも慣れているとはいえ、わざわざされにでていくか?でていったところで何を得られるとも思えない。でももしかしたらという気持を捨てきれない。えぇいと思い切って、自己紹介もかねて体験入会させていただけないかとメールを送った。
数日経ったが返信がない。もしかしたらサイトが残っているだけで、休眠中かもしれないと思っていたら、サークルのまとめ役をされているかたから丁寧な返信が届いた。返信には自己紹介もかねて、作品をいくつか送って頂けないでしょうかと書かれていた。
経験したことや考えてきたことを書き残しておこうと書き始めたもので、作品と呼べるようなものはない。まあ文芸の世界の用語ということなのだろうと、自分ことを書いたもの数点を添付して、個人のホームページにアマゾンの電子書籍のurlをお伝えした。

添付フィアルやホームぺージに掲載した拙稿のいくつかに目を通して下さったのだろう、いろいろ経験豊富で……そして返信メールをサークルメンバーに転送してレビューしてもらっていると書いてあった。
若い人たちの貴重な時間をさいていただき、申し訳ないと思っているところに、メンバーの一人から返ってきたメッセージをコピペしたメールが届いた。
「経験豊かで色々なことを考えられている……」
「これまで考えたことないような視点で文章を読み書きするきっかけになって、面白いのではないでしょうか、という気がしました笑」

決して間違っちゃいない。その通りだと思う。ただ、最後の「笑」とはいったいなんのか?
個人の備忘録に毛の生えたようなもので、拙稿というより習作といったほうがあっている。ましてや随筆だとかエッセイなんて代物じゃない。でもそれは文芸作品ではない。古希もすぎた一人の人間が観て、考えて悩んできたことをまとめておこうとして書いたもので、「笑い」の種にされるのはたまらない。

伝統的なモノ造りの社会でつくられるものは、作品とは呼ばない。同じように個人の体験を基に書かれたものは作品である前に、(ときには歴史的な)記録だろう。
はじめて作品とよぶ世界に数時間だが接することができた。予想もしなかったというとウソになるが、重厚長大産業をとおして社会を見てきた者の目には、どことなく実感の薄い軽い世界のように思えた。
住んでいる、住んできた世界が違うということなのだろう。と一言で片づけるものイヤだが、作品とよぶ世界に生きていらっしゃるのも自由。こっちがとやかく言うことでもない。知ったことかという気持があるが、よけいなお節介の一言。
「直接体験の質と量が間接体験から引き出せることの質と量を決める」
だてに半世紀もかけてあちこち渡り歩いてきたわけじゃない。
2023/8/13 初稿
2023/10/4 改版