李朝朝鮮をあえて翻訳本で(改版)

いくら公平無私にと思っても、書いた動機や目的からは自由になれない。政治的や個人的にどこにも肩入れしないように細心の注意をはらっても、書いた当時の社会の風潮や、政治的、個人的な都合や思惑に引きずられる。
たとえバイアスのない事実が書かれているにしても、書かれている内容から何を得るかは、読み手の知見や思い込みや社会的、政治的立場次第になることを避けられない。立場からくるしがらみやバイアスのない書き手もいなければ読み手もいない。自分のことを棚に上げての言い分で申し訳ないが、読み手としては、できるだけバイアスの少ない情報が欲しい。

こんな前置きをしたのにはわけがある。十年ほど前に現役を退いて、今まで見たことや聞いたこと、そして思い悩んできたことや考えてきたことを書き残しておこうと思いたった。個人の雑文でしかないにしても、さっと読める簡単明瞭さを求められる仕事の書類とは違う。書き始めて、あまりに拙い自分の日本語に気がついて茫然とした。なんとかしなければと文章の書き方といった類のノウハウ本から始めて、辛口の日本語批判のような本をあさってきた。
あれこれ読んでいて、数年前にあやふやな自分の日本語にたいする自戒の念もこめてだが、自分の日本語を健康に保つためには訳本は避けるべきだと思いだした。三十歳からの三年半ほど技術資料の翻訳(和文英訳)でメシをくってきた。その経験からだが、翻訳は言葉の選択が原文に規制されるから、自由に言葉を選べる原文を書くより難しい。簡単な文章でも、なぜこんなことを書いたのかと考えだすと、書き手の立場や書いたときの社会状況などあれこれ思いを巡らすことになる。卑近な例をひとつあげる。「安全第一」のようなことが書かれていれば、安全ではないから、書かざるをえないのだろうと考えてしまう。
全く知らない世界のことは翻訳できない。自家用の資料としてならいざ知らず、多少なりともお金をもらっての翻訳ではしてはならない。そんな翻訳、知っている人たちには、意味の通らない駄訳にしかならない。さらに言わせてもらえれば、どんなに優れた翻訳者でも原文に引きずられて訳文がぎこちなくなるのを避けられない。意味は通じても、原文のリズムを損ねずに翻訳はできない。リズムもと思えば翻訳者の立場からはみ出て意訳するしかなくなる。極端な場合、原文を参考にして翻訳言語で書かざるをえない。

朝鮮併合以降第二次大戦が終わるまで朝鮮を植民地として支配してきたことは、考え方の違いや立場の違いがあるにせよ否定しようのない歴史的事実だと思っている。歴史的事実をどうとらえるかという議論がはじまると、日本と韓国の歴史的事実に対する認識の違いがあることに気づかされる。北朝鮮とは交流が途絶えているから議論そのものが始まらない。認識の違いを矯正するためにも会話が……という話を耳にする。そして、良識?ある方々からでさえ「日本は植民地支配で良いこともした」「特に教育や経済などの近代化は日本の統治がなければなされなかった」という類のご高説までとびでてくる。この類の主張は旧宗主国ならどこにでもある勝手な言いぐさで、思い上り以外のなにものでもない。スペインでもイギリスでもフランスでもオランダでもどこでも、あきれるほど似たようなことを主張する人たちがいる。

小学生でもあるまいし、曲がりなりにも一端の社会人なら、自国の経済的負担や人的損失を顧みることなく、植民地の経営をしてきたなんて主張を真に受けやしないだろう。自国にとって都合がいいから植民地経営をしてきただけで、現地の人たちに何らかの恩恵があったとしてもそれは、付随的に生じたことで目的だったはずなどあろうはずがない。

「日本は植民地支配で良いこともした」「特に教育や経済などの近代化は日本統治がなければなされなかった」という言い草がひっかかって、日韓併合に至るころの李朝朝鮮がどんな感じだったのか気になっていた。この「日韓併合」というのも「敗戦」を「終戦」と言い換えてきた小賢しい言葉遣いで、生理的な嫌悪感がある。

そこで当時の朝鮮をどの国や組織の縛りもなく自分の足で見て回って書いた本はないものかと探した。ここで先に書いたバイアスの問題がでてくる。当事者かその関係者の記述は避ける。一個人としての気持ちにすぎないにしても、日本人や韓国(朝鮮)人の書き残したものは参考までにしておかなければならない。日本人でもなければ韓国(朝鮮)人でもない、さらにどちらかに関係する可能性のある人でもない、第三者の書き残したものを探した。

随分前になるが本屋でイザベラ・バードの『日本奥地紀行』と『イザベラ・バードの日本紀行』を見つけて読んだことがある。多少先進国からの視線があることは否めないが、一私人として素の目で見聞きしたことがそのまま書いてあった。そこには研究者や官僚の書物のように、どこかで手にした文献や資料から作り上げたものではない実がある。

図書館から講談社学術文庫『朝鮮紀行 イザベラ・バード』時岡敬子訳を借りてきた。名訳のおかげで、イザベラ・バードが目にした社会が目に浮かぶ。
これは日本人にも韓国(朝鮮)人にも書けないと思う文章をいくつか書きうつしておく。そこには誰にも遠慮することのない、自分と自分の育ってきた文化以外には拘束されないイザベラ・バードの姿勢がある。

P22
「朝鮮人は隣邦の清国人とも日本人とも著しく異なっており、顔だちにはたいへんバラエティがあって、しかも衣服が画一的なのでいっそうそれが目につく……肌の色は浅黒いオリーブ色からきわめて淡いブルネットまでとさまざまである」
「鼻はまっすぐなわし鼻もあれば、鼻孔のふくらんだ横広がりのしし鼻もある。髪は暗色であるが、その多くは見かけのよい漆黒とするには黒色顔料と油をしょっちゅう塗らなければならないほど赤茶の色合いがはっきりしており、毛質は剛いものから絹糸のようなものまである。口ひげとあごひげがたっぷりある男性がいるかと思えば、ひげのかわりにわずかな髪を丹念に手入れしている男性もいるものの、大半は濃いあごひげを生やしている」
「唇のふっくらした幅広の口をぽかんと開けている光景は下層民によく見られ、同じふっくらしていても小さな口、あるいは唇が薄くて上品な口は貴族に多くみられる」
「目は暗色であるが、濃い茶色から薄茶までさまざまである。頬骨は高く、ひたいは帽子その他で隠れていないのを目にしたかぎりでは、広くて知的なひたいがとても多い。耳は小ぶりで形がよい。一般に表情はにこやかで、当惑が若干混じる。顔だちから察せられるのは、最良の場合、力あるいは意思力よりも明敏さである。朝鮮人はたしかに顔立ちの美しい人種である」
「体格はよい。男性の平均身長は五フィート四インチ半であるが、女性の平均身長は確認できず、また男性とは不釣り合いに低いうえ、めったにみることができないその姿は世にも醜い服装で欠点が誇張され、ずんぐりして横幅が広い」
「知能面では、朝鮮人はスコットランドで『呑みこみが早い』といわれる天分に文字通り恵まれている。その理解の早さと明敏さは外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたちまち習得してしまい、清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す。彼らには東洋の悪癖である猜疑心、狡猾さ、不誠実さがあり、男どうしの信頼はない。女は蟄居しており、きわめて劣った地位にある」

P32
「知識階級は会話のなかに漢語を極力まじえ、いささかでも重要な文書は漢語で記される。とはいえそれは一〇〇〇年も昔の古い漢語であって、現在清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。朝鮮文字である諺文(オンムン)〔ハングル〕は、教養とは漢語から得られるものとする知識層から、まったく蔑視されている。朝鮮語は東アジアで唯一、独自の文字を持つ言語である点が特色である。もともと諺文は女性、子供、無学な者のみに用いられていたが、一八九五年一月、それまで数百年にわたって漢文で書かれていた官報に漢文と諺文のまじったものがあらわれ、新しい門出となった。これは重要な部分を漢字であらわしそれをかなでつなぐ日本の文章の書き方と似ている」
「さらなる刷新は国王の独立・国政改革誓告文が漢文、純諺文、漢文諺文混合の三種類の文体で公布されたことで、いまでは漢文諺混合体は法令、公式文書、官報に正式に使用されている。一般に勅令および外国代表への伝令は依然、漢文に固執している」
「ときには純諺文を用いることも含め、政府の混合文体使用により朝鮮語が認知されたと、官僚候補生の適正をはかる試験〔科挙〕において漢文試験が廃止されたこと、新しい朝鮮の新聞『独立新聞』ではもっぱら『一般大衆』の文字が使われていること、大団体である外国人宣教師たちが朝鮮語を重要視したこと、諺文で書かれた学術書や文学書が徐々に増えてきたことは、朝鮮人の愛国心をつよめることばかりでなく、自国の文字ならたいていは読むことができる『一般大衆』を西洋の科学と考え方に接触させるのに役立っている」
「開国の一〇年前に宗主国である清の皇帝に対し『教育ある者は孔子と文王の教えを守り実践している』と書き送っているが、このことこそ朝鮮を正しく評価するための鍵である。政治、法律、教育、礼儀、社交、道徳における清の影響は大きい。これらすべての面において朝鮮はその強力な隣国の貧弱な反映にすぎない。日清戦争以降朝鮮人は清に援助を期待するのはやめたとはいえ、清に対しては好感をいだいており、崇高な理想や尊ぶべき伝統、道徳的な教えを清に求めている。社会は儒教を規範とした構造をとっており、子供に対する親の権利や弟に対する兄の権利は清においてと同じく一〇〇パーセント認められている」

P58
「北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪習こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから!都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横丁の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている」
……
「こういったみぞに隣接する家屋は一般に軒の深いわらぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだとわかる。またみぞから二、三フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、これは家の床を暖めるとう役目を果たした煙突と熱風の吐き出し口である。終日粗朶を高々と積んだ牛が市内に入ってきて、六時にこの松の粗朶は住民の食事の支度と暖房に用いられ、ソウルの横丁という横丁をかんばしいにおいの煙で満たす。路地に煙のたちこめる規則正しさは感心するほどである」

社会や組織の縛りから自由だったとしても、誰も自分のうちにある思考の慣性からは自由になれない。それはイザベラ・バードにもいえる。ただ、ここまで読めば一つはっきりと言えることがある。これだけのものを韓国(朝鮮)や日本の学者や研究者やお役人や政治家が自国との関係を断ち切って、第三者として書けるか?知らないだけで立派な人がいるかもしれないという期待だけは残っているが。

p.s.
<現代日本語?>
「一般に勅令および外国代表への伝令は依然、漢文に固執している」とあるが、日本にも漢文の影響が色濃く残っている。高尚なものは難解だ、そして難解なものは高尚であるはずという意識が根柢にあるのだろう。学術論文や法律、はては特許や純文学まで漢文基調から抜け出れないままでいる。そこにアメリカから最新科学と先端技術に文化までが英語でなだれ込んできたからたまらない。日本語に訳す間もなく、カタカナやアルファベットの略語で済ませている。日本語英語の流行語を聞いても何を意味しているのか想像がつかないことさえある。言葉はどんどん変わる。今にはじまったことではないが、現代日本語とはなんなんだろう?説明できるものなのか?説明を試みてもしょうがないことなのか?気になってしょうがない。
一つ確かなことがある。「現代国語」の教科書には、ときの日本語は載っていない。印刷物には避けようのない時間の遅れがある。
2023/9/17 初版
2023/11/8 改版