遺伝子治療が始まっている―遺伝子編集(改版)

New York Timesのニュースレターに遺伝子治療に関する記事があったが、購読契約をしてないからタイトルまでしか読めない。共和党がどうのとか、トランプがどうしたなんて記事なら気にもならないが、遺伝子治療のニュースで気になってしょうがない。New York Timesの記事の元となった一次情報からNew York Timesのように記事にしたものがないかと探した。社説の類ならいざしらず、マスコミが提供する情報は、ほぼ百パーセント二次情報にすぎない。どこかに一次情報はあるはずだし、似たような記事が思わぬところで見つかることもある。いくら探しても見つからないこともあるが、あれこれ見ていくなかで、あらたな情報元を発見することもある。

見つけたのはNBC Philadelphiaの「Boy born deaf can hear for the first time thanks to gene therapy at CHOP」と題した記事だった。記事の見出しを機械翻訳すると「生まれつき耳の聞こえない少年が、CHOPでの遺伝子治療のおかげで初めて耳が聞こえるようになる」になる。urlは下記の通り。
https://www.nbcphiladelphia.com/news/health/chop-genetic-hearing-loss-gene-therapy/3755700/

記事の冒頭を機械翻訳した。
「フィラデルフィア小児病院(CHOP)によると、11歳の少年が画期的な遺伝子治療法のおかげで生まれて初めて耳が聞こえるようになった」
「CHOPによれば、遺伝性難聴のため生まれつき両耳が聞こえないこの少年は、実験的な遺伝子治療を受けた最初の人物である」
「『難聴に対する遺伝子治療は、我々難聴の世界の医師や科学者が20年以上目指してきたものであり、ついにここに実現したのです』と、CHOPの耳鼻咽喉科の主治医であり臨床研究部長、ペンシルバニア大学ペレルマン医学部の准教授であるジョン・A・ジャーミラー医学博士が語った」 「我々の患者に行った遺伝子治療は、非常にまれな1つの遺伝子の異常を修正するものでしたが、これらの研究は、小児難聴の原因となる150を超える他の遺伝子のいくつかに、将来使用の道を開くかもしれません」
「少年は2023年10月4日、内視鏡を使って遺伝子治療を内耳に入れる手術を受けた。内視鏡によって鼓膜が部分的に持ち上げられ、医療器具が『丸窓』として知られる蝸牛の小さな入り口に挿入された。そして、少量の遺伝子治療薬が内耳に直接投与された」

遺伝子治療を臨床に導入しようと何十年も研究が続けられてきたが、その努力が実を結び出した背景にはCRISPRーCas9の存在がある。CRISPRーCas9というツールが遺伝子の人為的操作をサイエンスからエンジニアリング――臨床領域に広げた。ゲノムの解析が進んだところに高校生でも使えるツール(価格八〜九万円)が登場して、遺伝子の置き換え編集が特別なことではなくなった。

CRISPR-Cas9は、人類も含めた全ての生物に想像もできないほど大きな影響を及ぼすだろう。人為的に遺伝子を変更するということに生理的あるいは倫理感から生まれる拒否反応は理解できる。生物のありようを変えてしまうという不安があるのは当然だろう。それは人類が火を使い始めたのと似たようなもので、今CRISPR-Cas9をどう使うかが問われている。

ちょっと想像してみてほしい。今私たちの周りにある植物や動物は人類が長い年月をかけて交配して生まれた、あるいは突然変異によって出現した種のうちで自分たちに都合のよくない種を間引きして、都合のいい種を残してできあがったものと言ってもいいすぎではない。もっと実りの多い米や麦、旱魃にも害虫や感染への耐性もある果樹。乳を多く出す牛、卵をもっと産む鶏、どれをとっても人為的な淘汰圧によって作り出された、特異な遺伝子をもったものでしかない。
淘汰圧を間接的な遺伝子編集に相当すると考えれば、遺伝子編集で直接遺伝子に手を加えたものとの間の違いにどれほどの違いがあるのか?一歩後ろに下がって遺伝子とはなんなんかを考えれば、手にした科学技術とそれがもたらすであろう将来が見えて来る。

CRISPR-Cas9を作り上げた科学者の一人、ジェニファー・ダウドナの自著『CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見』(櫻井祐子訳)から視野の整理の助けになりそうな個所、そして彼女が心配していることを書きうつしておく。
「細菌がウィルスに感染しないために持っている免疫システムを、遺伝子の編集に利用できる。私たちが、その技術CRISPR-Cas9を発表したのが2012年。以来、遺伝子を数時間で編集できるこの技術が、人類史上類をみない変化を引き起こしている」
「ウィルスを遺伝子の運び屋、すなわちベクターとして利用する手法は、生物学分野に革命を起こした」
「ウィルスは悠久の歳月をかけて宿主細胞の防御機構のあらゆる弱点を突く方法を学習し、細胞に遺伝子を送り込むための戦略に磨きをかけてきたのだ。ウィルスベクターはきわめて信頼性の高いツールで、標的細胞に100%近い効率で遺伝子を導入することができる」
「ウィルスは自らのDNAを細胞内に送り込む方法だけでなく、新しい遺伝コードを定着させる方法にも長けている」

「食品科学者は、手軽な遺伝子編集がもたらす可能性に舞い上がっている。だが、誰もが見て見ぬふりをしている大きな問題がある。生産者や消費者は、高精度な遺伝子編集を施された作物をどう受け止めるだろう?X線やガンマ線、化学的変異などによってゲノムにランダム変異を導入されてきた数千種類の作物のように、抵抗なく受け入れるだろうか?それとも遺伝子編集作物は、従来型の遺伝子組み換え生物(GMO)と同じ運命にさらされ、有用な貢献をする大きな可能性を秘めながらも、激しい反発を、あえていうならば、誤った情報に基づく反対を招くのだろうか?」

「二〇一五年時点で、アメリカで栽培されているトウモロコシの九二%、綿花の九四%、ダイズの九四%がこの方法で遺伝子を組み換えられたものだった。(遺伝子組み換えとCRISPRによる遺伝子編集の違いは、第一章で述べたように、それまでの技術は、ピンポイントで塩基ひとつひとつ標的にして変えることは不可能であること。運任せで長時間の試行錯誤のうえで遺伝子の改変がなされる。日本語編集部注)」

「GMO食品はこれほどの利点がありながら、また数億人の人たちがすでに何の問題もなく消費しているにもかかわらず、根拠の薄い声高な非難や、世間の厳しい目、執拗な抗議にさらされている。批判のよりどころとなっているのは、消費者の健康や環境への悪影響を明らかにしたと謳う、ほんの一握りの研究である。たとえば遺伝子組み換えジャガイモを与えたラットががんを発症した、遺伝子組み換えトウモロコシの花粉を食べたオオカバマダラ(チョウの一種)が死んだといったものだ。こうした報告は多くの追跡研究によって否定され、科学界全体の非難を招いている。実のところGMO食品は、人間の消費用に販売されている全食品のなかで、規制当局によって最も慎重に審査されている食品である」

こういっては失礼になるが、学者や研究者の中には大勢とは異なることを主張することによってのみ存在を誇示できるという寂しい人たちもいる。そしてその人たちの主張を拡散することによってしか生きようのない人や組織もある。
盲目的に信じるのは危険に過ぎるが、まっとうな科学者や技術屋は、政治屋やマスコミとは違う。彼らは歴史上の今の評価以上に将来の社会での評価を気にしている。裏付けのない根拠のない結論を口にはしない。
2024/2/4 初出
2014/3/17 改版